1.死ねない男

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バキィ!!!  鈍い音が耳に入る。ジンジンと痛む拳は、人の顔面のような柔らかい感触を捉えていない。むしろその真逆で、恐ろしく硬く骨が折れてしまいそうだ。  ゆっくりと閉じてた目を開ける。渾身の力を入れて殴ろうと思ったので、いつの間にか目が閉じていた。  俺の視界は、壁にヒビを入れながらめり込んだ拳と、腰が抜けて地面にへたり込んだフユカを映し出した。  拳から力を抜くと、それを見計らったかのようなタイミングで血が流れ始める。拳の皮が剥けて出血を起こしたらしい。今になって漸く、剥けた箇所に刺すような痛みが走った。 「に、兄さん。血が……」 「話しかけるな。もう、俺に話しかけないでくれ。これ以上、何も話したくないし答えたくもない。お前と話してると苦しいんだ。心が」  呆然とする義妹をその場に放置し、俺は部屋から出てまた外へ向かおうとした。しかし、寝室の前には両親が立っていた。壁を殴った音に驚いたのだろうか。それとも最初から居たのだろうか。  まあ、どっちでも良いのだが。今度こそ俺は死ぬつもりだ。もう会うこともないのだから、両親が何をしていようが関係ない。 「待て、ハル。話すことがある」 「そうよ。貴方には聞きたいことが山ほどあるわ」  それもそうだろう。最初から俺たちの会話を盗み聞きしていたのであれば、両親として質問しなければならない事がたくさんある。俺だって親の立場なら、息子をキツく問い詰めるだろう。 「……何で、俺を産んだんだ。アンタらは」  だが、そんな事を考える余裕はあっても、心を覆う絶望感には抗うことが出来ずに刃のような言葉を発してしまう。紛う事なき本心であるのが尚更悪質だ。  両親を嫌っているつもりはない。あんな物言いをしてはいるが、義妹であるフユカを憎んでいる訳でもない。全員、俺の大切な人に変わりない。誰か1人でも欠けたら、俺は絶望するだろうし慟哭を上げるに違いない。  なら、それ以上に大切だった人が死んでしまったら? 答えは決まってる。 「親なら、息子のやりたい事を尊重しろよ」  それだけ言い残し、俺は何も持たずに靴を履いて外に出た。俺が最後に首を吊ってからそれなりに時間が経ったらしく、人通りの多い大通りはいつものように賑やかであった。  すれ違う人々の笑みを見て、俺の絶望感と虚無感は深まっていく。世界一不幸な人間だと思い込んだ人のような顔をきっと俺は浮かべていることだろう。  フラフラと覚束ない足取りで歩くこと数分で、俺は今度こそ自殺するのに相応しい場所を見つけた。  そこは行きつけの大きなデパートだった。地下2階から地上11階までと、かなりの大きさを誇るそのデパートは、俺がアキのためにお菓子を作るためによく通った場所だ。屋上は駐車場で、柵こそあるが乗り越えることは余裕で可能である。自殺に丁度良い。  ボンヤリとした意識のままデパートに入り、気がつけばエレベーターに乗って屋上に辿り着いていた。幸いなことに、エレベーターには誰も居なかったし入っても来なかった。  ヒュウヒュウ吹く風が気持ちいい。柵の近くを歩きながら下を眺めると言う不審者のような動きをしながら自殺に適したポイントを探したが、ここでも人に会うことなくやり過ごせた。今になってツキが回ってきたらしい。遅すぎだが。  下はコンクリートで、かつ人通りも少ないと踏んだポイントを見つけた俺は躊躇わずに柵を乗り越えた。辛うじて壁からせり出た足場に降り立つと、俺はもう1度眼下を見つめる。  急に怖くなった訳ではない。単に、人が通らないタイミングを見計らっているのである。そして、その時はアッサリとやって来た。 「アキに少しだけでも会えたら最高だな。会えなかったら……まあ、仕方ないか」  自ら命を捨てると言う行為は、たとえどんな理由があったとしても大罪であるという考えが多い。そんな大罪を犯してアキに会えるのか? と問われると疑問符が浮かぶ。ここまで来ておいて変な話だろうが。  それでも良いんだと言い聞かせると、俺は少しでも激突までの高度を上げるためにもジャンプして、眼下の地面に向かって飛び降りた。  まるでジェットコースターに乗っているかのような浮遊感。クルクルと回転する体。思った以上に風圧が強いが、それも数秒で終わる。我慢しよう。  首吊りが成功しかけた時と同じように、俺の脳裏には走馬灯が浮かぶ。今回は楽しかった思い出と、悲しかった思い出の両方が疾風のように脳裏を駆け抜けていった。短い人生だったが案外色んな出来事があったのだなと、妙に冷静な気持ちで俺は落ちていく。  地面が最初と比べてかなり近づいて来た。もうすぐ一瞬の痛みの後に意識を失い、そのままあの世へ旅立つだろう。  そう思い、俺は激突の瞬間を待つ。と、その時であった。 ゴウッ!  そんな音と共に、俺は真下とは違う方向へ体が飛ばされ始めたと言うことを認識した。さっきまでとはまるで異なる感覚だ。回転していた体が不安定にグラつき、当初想定していた場所とは全く違う景色が視界に入って困惑する。そして、どこから湧いたのだろうか。一握りの恐怖心も感じた。  ジワジワと湧き上がる恐怖心に訳もなく叫びそうになった瞬間、俺の意識はプツリと途切れた。
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