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なんて逸話も遥か昔。今は現代、月曜日。そんな話は俺ら家族以外誰も知らないだろう。
なぜ俺が知っているのか、それは彼女が愛用したバイオリンが家にあるからだ。父さんなんかはずっとそんなのを信じていたけど、俺が二十八を迎える頃に…つい半年ほど前、あの世へ行った。そして高校教諭も慣れてきた年齢である俺は今、父さんに悪いことをしたと申し訳なさを抱いている。ずっとその逸話を適当に流していた。その度父さんは怒ったけど、最期の最期くらいはせめてちゃんと聞いて、肯定してやるべきだった。
――と、そんなことを思い出したのは、音楽の授業終わりの女子生徒が質問に来たからだ。綺麗な青い目を持つ女子は確か、音楽の授業で学年トップだった。真面目なんだし、右腕の金属のブレスレットは注意しないでやろう。
「先生」
「どうしましたか?」
「先生は、バイオリン、引ける?」
そう訪ねられて、あの逸話を思い出した――というわけである。
「先生?聞いてる?」
「え?あ、ああ、聞いてるよ。バイオリンはまあ、家にあるから少しは弾けるよ。といっても激しいのは無理だ。」
「ああ、やっぱり。」
確か、『阿波』だっけ。彼女は目を細めて笑う。
「私は弾けないけど、先生は弾けそうな目をしてたから。」
「そんな目があるのかい」
「うん。」
残念だけど、俺が弾けるのは本当に初級、なんとか全音階を拙く奏でることが出来る程度だ。バイオリンよりも歌うのが好きなものだから、結局いつも集中力が欠けてしまう。
――尤も、その『歌い』もごく限定的なシーンでのみ使えるのだが。
阿波はその後は何も言わず、目の前に突っ立っているだけだ。もう休み時間は、五分とないぞ。
「阿波さん、教室に戻らなくても良いのかい」
「ええ。私もう少し先生と話ておきたいわ。授業は簡単すぎるから、ね、次は先生授業ないでしょ?」
ほら、と阿波は小さな穴が空いた防音の壁に張った俺用の時間割を指差す。しかし教師にサボりを言うとは、なんと愚かな。
「駄目です。」「ええー」「帰りなさい」「先生のケチ。バイオリンについて、話したいのに。」「なら、放課後に来れば良いですよ。」
俺は全てのクラスを受け持ち、かつ担任副担任としての称号を持っていない。それでも、生徒の前では良い教師でありたい。放課後へ呼ぶのは面倒だが、生徒のコミュニケーションの興味は潰してはいけない。
阿波は人にぶつかりそうになった程度に驚いた顔をしてから、毎日来るねと言った。
いや、毎日はやめてくれ。
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