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阿波が訪れるようになってから、俺は彼女をよく知るようになった。
「先生。」
彼女は淡々としていること。
「今日も来たのか」
「あの昔話に出てきたバイオリン、私、見てみたい。」
「悪いな、実家にあるんだ。」
何故か俺が形だけは受け継いだバイオリンに強い関心を持つこと。
「明日と明後日の、休みの時に取りに行ってよ。私もついていくよ。」
「いや、それは事案だろ…」
「先生若いし女性じゃん。母子に見えるって」
「性別も年齢も関係ありません」
驚く程に遠慮がないこと。あと敬語を全く使わない…いや、それは男女どんな学年問わず距離がある音楽教師としては喜ばしい事でもあるが。
阿波はピアノの椅子に座り、俺は生徒用の腰掛けのない椅子に何故か座るのが、いつの間にか当たり前になっていた。
阿波は右手でメロディーとも言えないような音を気まぐれに奏でつつ、たわいもない話をして来る。
「先生はなんで教師なの?」
「歌手になり損なったからだよ」
「先生はなんで今は歌を歌わないの?」
「ひどい歌声だから」
と、赤ずきんのような会話を繰り返すこともあれば、「先生の声は透って綺麗なのに、勿体ない」とナチュラルに褒め殺しに来るところもある。
けれど嬉しくとも、可愛い生徒の頼みでも俺は歌わない。俺の歌は『怒りの歌』だから。
いっそ男になれば歌声も、怒りから喜びに逆転すると期待した愚かな十代のせいで、私に戻したい一人称は未だに俺のままだし。とにかく俺の歌声は馬鹿みたいにいろんな事を試したって何にもならなかった。
だから阿波の前では絶対に歌ったりはしない。
「先生でも、歌上手いでしょ、絶対」
「そんなことないよ。音楽教師は楽器と心だけで成り上がったからね。」
「ふぅん」
阿波はつまらなさそうにピアノの鍵盤のド、ミ、ソを押すと、立ち上がって肩掛けの紺の鞄を持つ。
「じゃあ先生、さよなら。」
「はい、さようなら。」
こうやって今日も、阿波は音楽室から去ってった。金曜日だった。
日は経って、晴天の土曜日の昼過ぎ。
「母さん、俺だよ。ただいま。」
「お帰り。あんたいい加減俺って言うのやめな。良い年して、まだ癖が抜けないんだから」
「そんなの、俺の勝手だろ。」
それにそもそも、言われなくたって俺だってなおしたい。何故って、困ったことがひとつある。顔も男っぽいから、それでいつも性別を間違われるんだ。
それを訂正し損ねて、先輩にキャバクラに誘われた時はどう反応すれば良いかわからなかった。いや、後輩にホストに誘われても困っただろうが…まあ最近は面倒でなおす努力もしていないからな、仕方がない。
「損で、いきなりどうしたん。帰ってくるの連絡ひとつも寄越さずにさ。」
「ごめん。バイオリン取りに来ただけ。すぐ帰るから。」
「あんたがバイオリンねぇ?まさか売ろうとしてないわよね?」
「するわけないだろ。」
じとっとにらまれる。そう、母さんもあの逸話を信じている。半ば父さんが無理矢理信じさせたところもあるが、とにかく信じた母は父さんが俺にバイオリンを遺すと言った夜の晩御飯から暫くは俺の苦手な魚がやけに多かった気がする。結局、ここに遺しておくという約束で和解したが、そもそも俺は全く悪くないよな。しかもこの和解、俺から持ち出したのは今も不服であるところ。
しかし俺ももう大人だ、大人らしく水に流そう。
「ちょっと、バイオリンに興味がある子に見せるだけだよ」
「あらそう?嘘ついたらまた魚にするからね。」
母よ、俺だって魚が食えないわけじゃないし、その脅しはあまり効果がないんだ。俺は半目で呆れつつ、一人暮らしをしてからもずっと変わらない母にもはや一種の安心感さえ感じていた。少しだけ父さんの匂いが混ざった家へ入ると、どうしても帰ってきたという思いが強くなりつつ心の中でただいまと呟いた。
仏壇で手を合わせたり、バイオリン少女の逸話の狂信者化した母の考察をだるく聞いたりしてると、あっという間に夕方。困ったな、早く帰る気だったのにさ。
「はい。」
「これは…」
夕食はコロッケだ。私の好きな。さすが、母よ。何だかんだ優しい。
「ちょうどジャガイモもらったのよ!食べきれそうで良かったわ!」
「…優しいかは微妙だな…」
「それよりも聞いて。あんたの歌はきっと伝説の少女と相対するのよ。」
「はあ…」
ああ、またはじまったな。
「あんたの歌は素敵なのに、何故か心地悪い。だけどあんたが怒ったときに歌う歌は、とても心惹かれるわ。怒りの歌ね、本当に」
「はいはい。」
怒りの歌とは、母がつけた名前だ。俺の事情を知った母はこれを特殊能力と勘違いしているが、こちらは嬉しくない。歌手志望なのに、どんなオーディションも何故か聞いていて気分が悪かったと席を外されることが、逃げられることが多々あった。逆に、そんな理不尽な現実をぶつけるように歌って帰宅した途中でスカウトが来た事も数度ある。…まあ、嬉しくて歌うとすぐに逃げられるが。
母が言ったことは悲しいことに間違いではない。だから母に言われ、それに気がついてからは、もう歌を避けている。
「……」
「ちょっと、聞いてる?」
「あ、ごめん。」
「全く、あんたって奴は…それはそうと、最近風が流行ってるみたいね。気を付けなさいよ。」
「ああ、うん。」
そこからはただ、沈黙が続いた。テレビのバラエティーはバイオリニストが映っていた。今度、調べてみるか。
その後は何故かいたたまれなくなって、俺は逃げるように家を後にした。
帰り際、母さんは少し寂しそうに、「泊まっていきな。なんで帰ろうとするの。」
と言う。
「ごめん。」
明日は仕事だとか、嘘を言えば良いのに、ごめんとしか言えなかった。
「あんたは私を何度突き放すの。」
「俺だって、辛いんだよ。」
そう言って、俺はそそくさと帰ってった。
母さんは父さんに諭されてからおかしくなった。でも父さんが死んでもまだ理性があるのは、逸話のお陰だ。あれがきっと、父さんと俺の代わりに心の支えになってくれてるんだって、わかっている。――だって俺みたいに、逃げたりしないから。
でもさ、父さんが死んだとき、俺はもう家を出る予定だったんだ。母さんと父さんがずうっと逸話の素晴らしさを話していて、たまに会話に入れられるのだけでも嫌なのに、父さんが死んだ翌日からずっと俺に振られるのは俺にとって辛いだけなんだ。決して突き放したわけじゃないんだ。わかってくれよ。
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