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月曜日の放課後、阿波にバイオリンを見せてやる。阿波は幼い子供のように手を叩いて喜んだ。
「わあ、ありがとう!」
「ああ。」
「弾いても、良い?」
「良いぞ。」
阿波は手に取り、ゆっくり弾いていく。それは俺の歌のように、気分を害してしまう音だった。音程もリズムも取れている。なのに、気持ち悪い。
それでも止めなかった。だって俺は、止められることの辛さを知っているから。
やがて一曲弾き終わると、阿波はお辞儀をしてバイオリンをしまう。
「やっぱり、駄目だ。」
「……」
「先生は逃げなかったね。」
「俺の歌も、そうだから。」
「へえ。そっか。そうなんだ。奇遇だね。」
「奇遇だな。」
「バイオリン、好きなんだけどね。でもこれは、私の決意だから。」
「そうか。」
いつの間にか、会話は俺の方が淡々としてしまう。駄目だ、いつも誠実な教師でないと。ずっと昔、母さんと父さんと向き合えないなら、歌が向き合ってくれないなら、せめて仕事とは向き合わないとそう決めたんだろ、俺は。
「ねえ」「なに」「先生の歌も聞きたいな。」「嫌だ」「私は逃げないよ。」「うん、わかるよ。でも」「お願い」「…………」
俺は息を吸う。不思議なものだ。
阿波はあのバイオリンを、ためらいなく弾いた。子供の方が先いくのは恥ずかしいが…阿波だけの為に今なら歌える気がした。
「どう、ひどかっただろ」
「でも先生、どこか心惹かれたよ。」
「ありがとう」
決して上手いとは言わない。それでも良かった。俺は何故か、清々しい気持ちになっていた。それはきっと歌と一瞬でも向き合えたからだろう。
「いつか、思うままに歌って、弾ける日が来ると良いね、お互い。」
「ああ。」
そう言って、何故かクスリと笑った。
それから阿波は帰っていって、俺もすることがなかったのでバイオリンを持って音楽室を出る。バイオリンに、久し振りに弾いて貰えて良かったなと上から目線に声をかけながら。
そうして雲の多い夕暮れ時、学校の校舎を出て五分、寄り道しただろうあの子の姿があった。なんか気まずいので立ち去ろうか?いやでも俺は生徒に向き合う…
とか悩んでたら、向こうが気がついて、駅まで一緒に帰ることになった。スーパーの袋を持ってやりながら、少し嬉しそうな阿波の話しに耳を傾ける。
「先生が前言ってた、昔話あるじゃん?」
「ああ、それがどうした」
「あの人、どうなったかな」
「清々しかったんじゃないか。」
問題ごとの起こるバイオリンの才能なら、いっそ無い方が良いだろうに。
「でもね、きっと悲しかっただろうな。」
「不老不死なのにか」
「だから、ずぅっと愛したバイオリンを弾けないんだ。一度でも心を奪われたんだ、お世話になったんだ。忘れることなんて出来ないよ。」
「そんなもんか?忘れそうな気もするが」
「ずっと後悔して、でも誰かが死ぬくらいなら…って、ずっとジレンマを抱えるんだ。」
「やけに情の入った言葉だな。初対面の時とは比べ物になら無いぞ。」
「えへへ」
褒めてはない。
阿波は変わった女の子だ。不死の気持ちなんて、俺なら理解できない。それにこれはそもそも作り話だしな。大方、ちょっと良いバイオリンを脚色したんだろう。最期は物語まで出来ちまったんだよ、きっと。
「あ、先生、駅でお別れですね。」
「あ…」
不思議なことに、いつの間にか俺達は駅前まで来ていた。ぐうう、と阿波のお腹が恥ずかしげもなく鳴った。
近くにうまそうな焼き鳥の匂いが漂うが、生徒一人に贔屓はできない。しかしあれだ、歌を最期まで聞いてくれたお礼なら許される。
俺はそう、電車のなかで自分の行動を合理化していたら、これまたいつの間にか家に着いていた。
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