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それからまた、数日経った。その日は曇りで、傘が要りそうな金曜だった。母の体調が優れないとかで、仕事終わりの今から向こうへ戻るつもりだ。仕事場から直行予定だから、バイオリンも持ってきていた。
「あ、先生。」
制服姿の阿波が、後ろから声をかけてきた。
「もうとっくに帰ったはずじゃないの?」
「えへへ、ちょっと寄り道。楽譜買ったの!」
「バイオリンの?」
「うん。どうせ、弾けないけど。でもね、先生のバイオリン見たら、また弾きたくなっちゃった。」
「そうか。じゃあどうせだし、弾くか?そうだな…あそこの河原なんか良いんじゃないか」
今は人通りも少ないし、少し位は許されるだろう。
バイオリンを手渡すと、阿波は嬉しそうに弾き始めた。
夕日と黒髪のなびく少女、逆行と漂う神聖感は絵になる。
「先生って、怒る?」
楽しそうに弾きながら、阿波は俺に訊ねる。
「俺だって人だ。そりゃ怒る。」
「怒りの歌、ねえ」
いつかに話したことだ。
「ああ。」
「それ、言われてていいの?」
「まあ、変な自覚はある。だが母さんは頑固でな。もうそれでいいかって思ってな。」
家族事情は言いたくなかったが、ただただ芸術的な姿を見せる阿波の前では誤魔化せない。真実を語らねばいけないと悟った。
「私ね、逸話の女の子なんだ。」
「ああ、そうなのか。」
「驚かないのね」
「不思議なことにな。」
驚かなかったのは、きっと、何となくそんな気がしていたからか。今更驚くことはしなかった。だって、逸話の少女は才能を奪われただけで、バイオリンが弾けなくなったとは言ってない。いや、だけ、ではないだろうが。
それでも俺から口にしなかったのはきっと、俺が頑固だからだ。父さんと母さんが妄信的に言っていたことを、信じたくなかったんだ。
だって、何年も、ずっと。
怒りの歌なんてほしくもないものを才能だと喜ばれて。
俺だけが、おいてけぼりで。
友達もいた。彼氏だって、短い期間だけどいた。でも、そうじゃない。
母さんよりも、俺の方が――
ずっとずっと、一人な気がして。
阿波が聞いたこともない曲を弾き始めた時、音に合わせて語り出す。合わせて、空は晴れ始める。
「怒りの歌をつけるなんて、先生のお母さんはきっと、私を好いているのね。怒りの歌は当時良く私が使ってた言葉だから。」
そう言えば、所以を母さんから聞いた気がしないでもない。
「私の知り合いに歌が上手い子がいてね。よく言ってたの。怒りは嬉しさよりも簡単に強くなる感情だって。だけど、それはとても辛いから、幸せのままに歌いたいって。私はその子の歌に合わせてバイオリンを弾くのが好きだったんだけど、確かに怒りの歌は凄かったけど、悲しかった。」
逆光で、阿波がどんな顔をしているか見えない。ただ、水滴が雑草にポタリと落ちるのが、照らされて見える。
「でも、いつからかな。不幸の象徴と蔑まれて来た頃から、あの子は怒りの歌ばかり歌うようになった。綺麗だけど、とても悲しかったんだ。そのうちその子は自分の歌さえも嫌うようになって、私はいっそ二人で下手になれば一目を気にしなくていいのにって最低なこと、思った。」
私は、ただ。と阿波は呟く。
「幸せを届けられたら、それで良かったのにさ。」
音が低くなる。悲しくて、延びた音。
「それから私はその子と距離を取って、仲間から友達に戻った。それでもその子は私のためにずっと怒るから、私は遠くにいって、そこで泣きながらバイオリンの才能と別れを告げた。不老不死になってから、その子は死んだ事を知った。」
「…………」
「因果って、巡るのね。何故かあの子のずっと先の子供は私のバイオリンを大切にしていて、私は貴女と巡りあった。」
光の隙間から見えた笑みに、何故か見覚えを感じた。
「私はわかるよ。貴女がなぜ、好きな歌が苦手なのか、とか。私のせいだね。きっと、私が願っちゃったから、貴女にまで影響が出てしまった。」
「…迷惑な話だ。」
「ごめん」
「だが、俺はずっと歌が好きだ。嫌いになったことなど無い。俺はそっちの方が、ずっといい。」
歌が上手くて自分の歌を好くなんて完璧、なくたっていい。俺は歌が好きだ、それが一番重要だ。
阿波も俺の気持ちに答えるように、申し訳なさそうな声から、少し優しい声に変わる。
「優しいね。」
「本心だ。」
「ありがとう」
暫く、優しいメロディーが耳を通る。
やがて、阿波は言う。
「歌ってくれる?」
「ああ。」
俺は鞄をおろして、歌う。
都合よく上手くならない、それでも歌う。
けれどやがて、阿波のバイオリンは心が震撼するような音を出す。
浮いて、揺れて、撫でて、包む。
楽しくて、ずっと歌った。延々を望むほどに、感極まって、それでも歌う。
やがて終わる頃にはパチパチと大きな拍手が起こった。回りには人集りが出来ていた。
「ありがとう」
「こちらこそ、楽しかったよ。」
手を伸ばす。
しかしその手は、するりと透ける。
「なんで…!?」
「延々の命は」
阿波は笑いながら言う。
「才能と引き換えに貰ったから。私が才能を出してしまえば、それはなくなる。ずっと、子孫でも良いから歌ってほしかった。それが叶ったから、悔いはないよ。先生の歌、素敵だった。」
ありがとう、と聞こえた。
私もありがとうって、泣きながら。
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