交差点で君と (Side 志野)

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交差点で君と (Side 志野)

   街の上に広がる空は、夕暮れから宵闇へと移っていた。夏特有の生ぬるい風が、街路樹の葉を微かに揺らす。  先日から始まった立ち稽古が日に日に熱を帯び、思ったより時間が押してしまった。バイトの時間ぎりぎりだ。  僕は急ぎ足で雑踏を抜け、交差点の先頭で足を止めた。  交差点の向かい側の、数人の集団から楽しそうな笑い声が上がった。大学生か、それよりも少し上ぐらいか。  何気なしに向けた視線の先に、彼――椎葉(しいば)がいた。  帽子に、伊達メガネに、マスク。  若手注目株の彼は、顔がわからないように、しっかり変装していた。けれども。僕は、ほんの一瞥で彼のことが判ってしまう。  共演からひと月経ったというのに、未だ彼へのセンサーが鋭敏に反応することに動揺し、僕はさらに目深に帽子を被り直した。    大通りをひっきりなしに走っていた車列が徐々にスピードを落とし、止まると、スクランブル交差点に、ピヨ、ピヨ、と、どこか少し歪んだ電子音が鳴り響いた。  友人達に囲まれた彼が、歩いて来る。僕に気付く様子はない。  役者仲間なら、誰かしら顔見知りのいる可能性が高いが、全く見知った顔のない集団は、学生時代の友人なのかもしれない。  僕と違って人付き合いの良い彼には、たくさんの友人がいる。楽し気に話す姿に、少しだけ、ちくりと胸に痛みを覚えた。  もしも目が合ったら、軽く手を挙げて挨拶しようか――と思っていたが、友人へと向いた彼の視線は、そのままで。  僕の手も、結局ジーンズのポケットにひっかけたまま。  僕だけが、全身で彼の存在を感じながら、すれ違う。  その一瞬、僕だけが彼を想う――  ほんのひと月前まで、同じ舞台に立ち、同じ時間を共に過ごしていたのが、儚い幻のように感じる。  極限まで濃縮された時間の中、真剣に台本と向き合い、皆と試行錯誤して、一つの作品を創り上げていった。  だが、どんなに気持ちが通じ合ったように思っても、千秋楽が来て幕が下りてしまえば、その虚構の世界は必ず閉じて、終わる。達成感で少しハイになったにぎやかな打ち上げを経て。その翌日には、もう、それぞれ異なる世界へと発っていく。  一瞬一瞬を積み上げ、虚構の世界を創り上げるのは、美しいものだと思うけれども。毎回舞台を終えるごとに、一抹の感傷が、思い出に寒色の色合いを落とす。   「また一緒にやりたいね」  打ち上げでそんな言葉を交わしながらも、別の新たな舞台稽古が始まってしまえば、僕たち役者は、少し前までいた世界とは、全く別の虚構へと深く没入していく。  まるで、息継ぎのためにほんの一時海面へ浮かび、大きく空気を取り込んでは、再び群青の海深く潜っていくクジラのように。  その時、その時で集まった仲間たちと、常に新たな群れを創る。  僕は、あまり人付き合いをしない。  元々不器用な質で、広く人と関わることは苦手だった。気の合う友人は数人いるが、普段は、一人で過ごすことが多い。  それで、何か不都合があるわけでもない。  無理に他人に合わせると、疲れてしまう。それよりも、役者の仕事に集中したかった。  舞台でよく一緒になる仲間うちでは、そんな僕の性格は知られていた。  時に飲み会に誘われることもあったが、僕がいつものように断ると「だよね」「またな」――それで、済むことがほとんどだった。  敢えて距離を縮めることもない。  会えば笑顔で話すけれど、それ以上にもそれ以下にもならない。  ……だが、椎葉は。  僕よりも背の高い、いわゆるイケメンで。  屈託のない笑顔で、人の懐にするりと入っていく、人たらし。  その割に、舞台に対する熱量は、うっとうしいぐらい熱くて。  器用そうに見えて、実は台詞を覚えるのが苦手で、結構とちる。が、芝居の勘は良く、長身のくせに身のこなしは軽い。アクションも得意だ。  その不完全なアンバランスさが、魅力となっていることを、彼が自覚しているのかはわからない。無意識な、あざとさ。でも、それが嫌味じゃない。  舞台では僕と椎葉は親友設定だったので、一緒の出番が多く、自然と彼の台詞覚えにつき合い、二人で自主稽古をするようになった。  そして、いつしか、君は、僕の心の内にもするりと入って来た。    (つづく)
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