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舞台の中盤、僕の役が、手酷い裏切りに遭い、椎葉の前でつらさをこらえて俯く場面があった。ある時、演出家が、
「これは単なる友情では、括り切れんよなあ…」
と、呟いた。
僕は、心を見透かされたように感じ、どきりと心臓が跳ねた。自覚しないよう、直視しないようにごまかしていた、椎葉への思慕を指摘されたようで。
男同士の友情を、ほんの少しだけ超えるような、僅かなほのめかしをしてみようか、と提案された時は動揺を隠すだけで精一杯だった。
それまでは、ただ励ますように肩を抱くだけだった椎葉の手が、なだめるように僕の髪を梳き、自分の胸に僕を引き寄せると、その指先が僕の耳朶を微かについばみ、流れるように首筋を辿った。
その艶めかしさに、ぞくりと震えが走った。
見上げると、椎葉は口の端をほんの1mm上げ、更に強く抱きしめた。
戸惑いうろたえ、真っ赤になる。
完全に、役ではなく、素のままの僕だった。
周囲が囃し立てて盛り上がり、結局、冗談ぽく励ますこの演出に決まった。
そういった流れに乗って盛り上げることが得意な椎葉は、毎回、僕を戸惑わせるアドリブをかましてきた。
もちろん役者根性で受けて立ったが、幕間では彼に文句を言った。
「やめろよ」
「やだね。評判いいじゃん。お客さんも喜んでるし」
「心臓に悪い」
「脚本家の久野先生だって、楽しみにしてるらしいよ」
ははは、と鮮やかに笑う君。
僕は、ため息交じりに、苦笑を返す。
君は、知らない。
抱きしめられる時、肩が無意識に構えてしまうこと。
毎回、初めてのように、心臓がうるさく跳ねてしまうこと――
アドリブに応えつつ、近すぎる体と重なる鼓動に、めまいがした。
その腕に抱き寄せられるその一時を、一番楽しみにしている僕自身を、どうしたらいいのか、わからなくなって行った。
いつしか、彼の姿を目で追ってしまうほどに。
千秋楽。
最後の最後で、僕は反撃した。
僕を抱きしめる椎葉の背に腕を回し、甘えるようにその胸に頬をすり寄せた。彼の腕が、ほんの微かにぴくりと戸惑うように反応した。それが、単なる戸惑いなのか嫌悪なのか、わからなかった。
嫌われているとは思えないけれど…。人の気持ちを読むのは苦手だ。
自分が想うように、椎葉に想われているとは、とても思えない。
少しだけ打ち解けた、気難しい役者仲間…ぐらい、なのかもしれない。
だから。
いつもと同じように、打ち上げで、
「また志野と一緒にやりたいな」
彼に、そう言われて。
僕はビールジョッキの水滴を見つめながら、こくりと頷くことしか、できなかった。
連絡先を交換することもなく。
彼にとっては、単なるいつものリップサービスだったのかもしれない。
店を出て、じゃあ、と別れる手前で、彼の差し出す手に戸惑いながら、握手を交わした。
「またな」
「…また、いつか」
一瞬だけ、しっかりと合わせた視線から、自分の気持ちが溢れてしまわないように。細く、細く、心の蛇口を絞った。
針の目に極細の糸を通すように、細心の注意を払いながら、僕は椎葉の黒褐色の瞳を見つめた。
笑っていても、意思の強さが透ける瞳が、好きだった。
その笑顔を、心に焼き付け、僕らは別れた。
今、椎葉も次の舞台の稽古で忙しいと伝え聞く。評判が良ければ、シリーズ化も視野に入れている作品らしい。しばらくは、同じ舞台に立つことはないだろう。でも、それは仕方のないことで。
イケメンでカッコよくて、少し抜けてて、舞台に対して熱くて、皆に愛される椎葉。
きっと、どんどん売れてメジャーになっていく、君。
でも、君と自分とを比較して、腐るつもりは毛頭ない。
僕は僕のやり方で、一歩一歩進んでいく。自分で選んだ好きな道だから。
いつか、また、共演できることもあるかもしれない。そうなったら、うれしくもあり、怖くもあるけれど。
恋愛対象が男性である僕と、そうではない君。
この想いを明かすことは、絶対にない。
僕は、いつだって君の成功を祈っている。君の幸せを願っている。
僕は、舞台上で、君に恋をした。
(つづく)
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