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交差点で君と (Side 椎葉)
大学時代の友人たちと、久しぶりの飲み会に繰り出す途中。
大通りのスクランブル交差点のちょうど向かい側に、彼――志野を見つけた。
◇
志野とは、今まで何度か舞台で共演したことはあるが、役柄がそれほど絡むこともなく、会えば挨拶をする程度で、親しく話すことはなかった。
稽古場では、役者仲間が談笑する輪から少し離れたところで、一人台本に向き合う姿を良く見かけた。イヤホンで音楽を聴きながら自分の世界に入る彼を、皆は「そういう奴だから」と適度な距離感で放っておいた。
芝居は上手く、どんな役にもすうっとなり切れる。器用だけど、目立ちにくい。オーディションでは主役になれないが、脇役として重宝されていた。
人づき合いは薄いけれど、話しかければ穏やかに応じる。雰囲気は、学者か研究者といった職のほうがぴったり来るかもしれない。
志野としっかり関わるのは、先月の舞台が初めてだった。
彼は、読み稽古初日には台本をほぼ暗記した状態で来ていた。かなりセリフの多い台本で、まだまだ覚えるところまで行っていなかった自分は、圧倒された。
元々暗記の苦手な自分は、目で台本を追うだけではなかなか覚えられない。読み稽古、立ち稽古とやって行くうちに、場面の流れと一緒に覚えていく方だった。今回の舞台は志野と二人で登場する場が多く、いつしか彼が俺の自主稽古につき合ってくれるようになった。
「ごめん」
「いいよ。そこの場、さらっておきたかったし」
皆が帰った後、稽古場が閉まるぎりぎりまで、セリフを合わせながら、動きを確認した。アクションは俺の方に分があり、彼に動きのコツを教えることもあった。
少しずつ、志野との距離が縮まって行った――
◇
交差点の先。遠くからでも自分にはわかる、立ち姿。
背はそれほど高くない。男にしては華奢な肩。
目立たぬように帽子を深く被っていても、先月まで傍にいたから、わかる。
舞台袖で出番を待つ時の、静かな佇まい。古都の寺の石庭の、静けさの中のピンと張りつめた空気のような。
それでいて、二人の出番直前にはいつも、志野は俺と目を合わせ、ふわりと目元を和らげた。自意識過剰だと自分を戒めつつ、皆には見せない、貴重な彼の柔らかな笑みを、宝物のように記憶の棚にしまった。
舞台稽古が進むうちに、平常心で彼に対峙することが難しくなって行った。役になり切っている間はいいが、役を外れ丸腰の自分になると、途端に落ち着かなくなる。
もちろん、芝居には全力で向かっているつもりだった。が、彼が誰か他の役者と話していると、つい耳がそちらへ行ってしまう。つい、志野の動向を目で追ってしまう。ふと目が合うと、彼はそっと目の端を和らげ、俺にだけわかる笑みをくれた。
そんな些細なことで、心が浮き立つ――
今まで、女性とつき合ったことは何度かある。普通に好きだと思った。今は、恋人はいない。特に心を動かされる相手もいなかった。仕事が忙しくなってきたこともあり、芝居に集中したかった。
ちなみに、今まで男性を恋愛感情で好きになったことは、ない。
志野はどこから見ても、男だ。男にしては華奢だが、骨ばった骨格は明らかに男だし、声もそれなりに低い。
だが、男だ、女だ、という性別を越えて、好ましいと思った。
それが、恋愛感情なのかどうか――わからなかった。
◇
大通りを流れる車が止まり、信号が青になった。
俺は、敢えて交差点の向かい側の志野を視界に入れないようにした。
もしも、目が合ってしまったら、急いで心に鍵を掛け、自然な笑みを浮かべ挨拶を交わさなければならない。今や、その鍵は、かなり頑丈なものでなければ、到底保たない。
俺は友人の話に相槌を打ち、笑いながら、彼とすれ違うその一瞬が過ぎていくのをカウントダウンする。
志野は、俺に気づいているだろうか。
俺を見るだろうか。
俺は隣の友人の顔を見ながら、皮膚の表層の感覚だけで、彼を捉える。
あと5秒、4,3,2,……。
志野は、少し俯きがちに、数人の人垣の向こうを通り過ぎた。
(つづく)
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