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水槽を上から覗き込んだように、視界が歪む。
志野と和久井だけが、スポットライトを浴びたように闇の中からくっきりと浮かび上がって見える。
なんだお前は志野に気安く触るな志野そいつを見るな何二人で笑ってんだよ和久井志野から離れろ志野に触るなそれは俺のいや俺のではない俺のだ離れろ志野から離れろ俺のだ俺の志野だ俺の……
「椎葉くん…?どうしたの?」
「おい、椎葉。どうした?」
田上たちの声が遠い。
「……ちょっと、下行ってくるわ」
「お、おう」
渦巻く苛立ちとは逆に、神経がやけに研ぎ澄まされていく。
階下へ向かうエレベーター内の生ぬるい空気の揺れでさえ、皮膚をぴりぴりと刺激する。
フロアへと踏み込み、重低音の音圧を全身浴びると、それはさらに悪化した。
マグマ溜まりのような鬱屈した熱を身の内に抱えたまま、視覚は冷静に志野の姿を捉える。
志野は親し気に和久井に寄り添うと、目を合わせ、二人だけの世界の中で笑った――まるで、恋人同士のように。
ドラマの中ならば、まだ虚構だと分かる。
だが、今は。
ドン、ドン、ドン、ドン、とバスドラムとベースのビートが腹に響く。延々とループするメロディー。
呼吸と脈拍が徐々にずれ、バランスが狂っていく。
眩暈に、両拳を強く握った。
志野は、俺の恋人じゃない。
志野は、自由だ。
わかっている。
俺と別れて和久井とつき合ったって、俺がどうこう言う資格などない。
だが、頭の理解と心での納得は全く別物だ。
志野――
その時。
曲に合わせてフロアを縦横無尽に照らしていたムービングライトが、志野に当たった。
左耳がきらりと光る。
この距離で、そこまで見えるはずはないかもしれない。幻覚かもしれない。
だが、確かに自分の網膜へ届いた淡いブルーの光に、自分の内側で激しく渦巻いていたどす黒い波が、ぴたりと止まる。
志野との最後の日、この手で開けたピアス。
志野を従属させるつもりはないが、あのアクアマリンのピアスを着けているうちは、志野は自分を忘れていないと勝手に決めていた。
「志野」
大音量の中、志野にだけ届くようにまっすぐに発した自分の声。
志野が、振り返る。
「……椎葉」
驚いたような表情。
隣の和久井もゆっくりと振り向いた。
視線がぶつかる。
和久井は片眉を上げると、まるでホールドアップのように志野の肩から手を離し、一歩退いた。
「志野、ちょっといいか」
「え…あ…うん」
椎葉は、志野の腕を掴むと人波を掻き分け、暗いフロアから出た。
「椎葉…」
戸惑うように自分を呼ぶ声を無視し、そのまま人のいない廊下奥へと行くと、柱の影で椎葉は志野を抱きしめた。
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