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ビールを飲み干し、更にスコッチをご馳走になった。
ザックは話せば話すほど魅力的な男だ。金も地位もある男(トリトンホテルは格式高いホテルだ。ヴァカンスで奮発するならまだしも、ビジネスで利用するなんて上流階級の人間に決まっている。案の定、彼はロスで会社を経営しているらしい)というのは退屈な自慢話に走りがちだが、彼は酒の趣味も、探偵の趣味もいい。意外にも彼は読書家で、ウイスキー用の丸い氷をグラスの中で転がしながら、フィリップ・マーロウについて語り合う時間は有意義だった。しかしジーンがザックの冗談に声をたてて笑うたび「僕と本気の恋人になる気になったかい」とからかってくるのだけはいただけない。
ザックとは、本気の恋人にはなり得ない。
ホテルのお客だからという理由ではなく(もちろんそれも少しだけあるけれど)、彼がお金持ちで、ジーンが借金を抱えた貧乏人だからだ。この国に、身分の差というものは間違いなくあるのだ。
「僕は明日には帰らなければいけないが、来月また来る。きみの働くホテルに泊まるよ。そのときはまた会ってくれるね?」
ザックと話していた小一時間は、まさに瞬きの間であった。
明日に備えてホテルに引き上げるというザックは、最後テーブル越しに名残惜しげにジーンの手を握った。
「来月、本当に来てくれたら考えますよ」
ジーンは素っ気なく答えながらも、握られた手をぎゅっと握り返した。
ザックはその薄い唇の端に微笑みを浮かべ、おもむろに身を乗り出して顔を寄せた。その端正な顔が近付いてくる様を、ジーンは熱心に見守った。
口付けは、優しくそっと触れるだけだった。すぐに離れようとするザックに、もっととねだるようにジーンは顎を上げる。ザックは笑みを深めて、官能的な口付けをしてくれた。握られた手を引き寄せられ、ジーンはテーブルに乗りあがりそうな勢いで身を乗り出した。薄い唇がジーンの舌を吸い、下唇を食む。唇での愛撫にジーンは身を震わせた。
「こんなキスをしておいて、今日このまま帰る気かい?」
潤んだ目をしたジーンをザックがからかう。
しかし現実的に考えて、このまま彼のホテルの部屋に連れ込まれるわけにはいかないのだ。
「続きは来月」
「ああ、来月。約束だ」
とはいえ、このまた来月、という約束を、ジーンはまったく本気にしていなかった。
仕事でニューヨークを訪れる予定は、たしかにあるのかもしれない。だがひと月も経てば、彼はジーンのことなど忘れてしまうだろう。
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