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【本日の御予約】 乙梨寧佳 様 序
雨音で目が覚めた。
風向きが変わって、雨粒が窓を叩いたからだろう。
七時に設定した目覚ましはまだ鳴っていない。だから二度寝を試みたけれど、不機嫌な天気はそれを許してくれなかった。
「……、」
諦めて、充電器に刺さった携帯を手に取った。
ディスプレイの光に目を慣れるまで、数秒。
カーテンの隙間から灰色の光が差し込む六月の第三水曜日。時刻は六時半を二分から三分過ぎようとしている狭間。天気は言うまでもなく、雨。
よほど雨足が強いのか、いつも聞こえてくる朝の喧噪は、すべて雨音で上書きされているようだ。
――息苦しい湿気と熱気が、肌をベタつかせる。
そんな、ひどく不快な空気をちゃんと不快だと思えるようになったのは、ごく最近のことだ。
それはあたしの中で、何かが変わったからだと思う。それとも別に何も変わっていなくて、いまさらになって急に気付いただけだろうか。……なんて、どうでもいい自問だ。どっちだろうと、あたしは大きな差を感じないのだから。
――枕から頭を離して、虚空を見つめる。
あたしが『うらおもて』で働き始めて、もうじき三ヶ月が経つ。
なりゆきで始まったアルバイトも、今や生活の一部だ。
今日も大学の講義が終わり次第『うらおもて』に行く。特別バイトに行きたい訳じゃないけれど、かといって行きたくない訳でもない。
……要するに、あたしはこの生活をそれなりに気に入っているのだろう。
――起き上がってリビングに向かう。湿気を払うように扇風機が廻っていた。
「おはよ、みっちゃん。今日は早いね」
さっそく凛介の声が掛かった。
こくん、とあたしは雑に頷く。
どうやら早起きの理由が気になるみたいだけれど、いちいち声に出して説明するのは面倒だった。
大学進学を機に凛介と暮らし始めて早一年。凛介があたしより遅く起きてきたことは、まだ一度もない。いまのところ一日の例外もなく、先に起きて朝食の用意をしてくれている。今日みたいにあたしが不規則な早起きをした日でも、やっぱり凛介はキッチンに立っている。
いったい何時に起きているのか気になるけれど、それを訊いたことは無い。
訊いたところで、どうせ「ついさっきだよ」なんて、笑って答えるに決まってる。
ちなみに「パンにする? それともご飯?」という毎朝の問いかけに「……どっちでもいい」と答え続けた結果、パンとご飯が交互に出てくる生活が始まった。
そんなんだから、昨日がご飯で、今日はパン。
洗面所で顔を洗って戻ると、食卓に焼きたてのトーストと目玉焼きが並んでいた。
ここまでして貰えば、あとは座って食べるだけだ。
何も手伝うことなく――どころか一言も声を発することなく朝食にありつける毎日。それは朝が極端に弱いあたしにとって理想的な環境と言えるだろう。
けれど、最近また考えるようになった。
高校からの付き合いで、同じ大学に進学した彼氏と呼ぶべき存在。架条凛介は、どうしてこんなにも甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのか、と。
そう。
本当に、本当に不思議なのだ。
――緩慢な動きでトーストを齧る。
不意に、凛介の無防備な笑顔と目が合った。
――この笑顔に返せるモノが、あたしにあるんだろうか。
いまさらこんな風に考えてしまうのは、どうして。
――そういえば、もう思い出すことができない。
最後にありがとうを言ったのは、いつだっただろう?
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