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電車を乗り継ぐこと数本。毎日使う電車、たまにしか使わない路線、新幹線。窓から見える景色は目的地とは程遠いのに、すでに心にあるその景色が、イメージが殺風景なビル街をも鮮やかに見せてくれる。
新幹線の窓に少しずつ見慣れない景色が現れ始める。ビルだらけの街を抜けるとただ家だけが遠くまで広がる住宅街へ。やがて遠くにあった山が近づいてくる。トンネル。窓の外を楽しんでいた私は、子供のような気持ちでそれが終わるのを待っていた。こもった音が車内にまで響く。唾を飲み込むと、少しだけこもった感じがしなくなった。
パッと明るくなり、こもっていた音は広がっていく。背の高いコンクリートの壁が少しずつ低くなり、入道雲がその全貌をあらわにした。大入道の足元も見れば小さな家々がぽつりぽつり。気づけばトンネルの前までは視界一面に広がっていたカラフルな住宅街は消え、彩り豊かな緑が広がっていた。背のそろった、四角く区切られた緑は波を立てて揺れ、丁寧に空調で管理されたこの車内に、風を見せてくれる。高い建物は鉄塔だけ。背の低い緑の中に高く聳える鉄塔は遠く霞むまで繋がっている。細い用水路を見つけた。頭の中で自分をそこに置いてみる。飛び越えられそうだ。緑の中に小屋を見受けた。大型の農業用車両でも入っているのだろうか。稲を育てる暮らしに一度は憧れたが、私には広い土地と大型の機械を用意するお金もなければ、知識や経験もなかった。たまにこうして外から眺めているくらいがちょうどいいのかもしれない。
また少しずつ家が増えてきた。家、家、家、その中に森があった。森というには少し小さくて、雑木林というのがいいかもしれない。再び頭の中で自分を送り込んだ。雑木林に一歩足を踏み入れれば、そこはもう住宅地ではなくて、音もただ風で木々の揺れるのが聞こえるだけ。虫やヘビ、たぬきなんかがいてもいいと思う。小さくても祠みたいなものがあればもっといい、こんな場所が子供の頃にあったら、きっと毎日のように入り浸っていただろう。遠くへ出かけずとも、生き物の様子、湿り気、風で四季を感じられただろう。少し悩み事があれば、暗くなるまで一人で籠っていたかもしれない。所詮、隣の芝が青いように、都会人が抱く幻想であったとしても憧れを抱かずにはいられなかった。
こもった音で現実に戻る。空も緑も家も雑木林もなく、ただ暗いだけだった。またトンネルか。
街、緑、トンネル、家、トンネル、緑、街。そこに生きる何万人もの人々とすれ違い、ようやく電車が止まる。忘れ物がないか確認して、電車を乗り換える。ホームはむわっと暑くて、急いで次の電車に乗り込みたくなる。駅の案内表示とスマートフォンを交互に見て、さされた方へ進む。思ったより人が多くて少し驚く。しかし田舎、と心の中では思っていたが新幹線の止まる駅だ。それなりに人がいても何もおかしくはないだろう。
車内はひんやりとしていて、短い乗り換え時間に滲み出た汗を瞬く間に冷やした。見慣れない並び方をしたシートだ。少しワクワクしながら空いている席に座る。きっとこういう席は誰かと一緒に座って喋りながら楽しむといいのだろう。またいつか来るかもしれない時には誰かを誘ってみよう。
新幹線が速すぎたせいか、少し遅く感じる。飛んでいくように移り変わっていた景色も、穏やかに流れていくだけだ。それでも確かに進んでいて、だんだん街から住宅地へと移ろいでいく。どこに行っても変わらない家に少し眠たくなる。窓に肘を置き、頬杖をついたまま、うつらうつらとする。ガクン、と首が落ち、目が覚める。駅で待つ人も少なくなり、駅のホームの数も四つから三つ、二つへと減った。駅も無人駅になった。電車の中の人も減り、あっという間に着いてしまった。思い出すと最初の三駅以降、ほとんど記憶がなかった。多分ほとんど眠りこけていたのだろう。
駅を出て選択肢は二つ。旅館までバスで行くか、歩いて行くか。バスの時刻表を見る。あと二十分でバスが来るらしい。そんなに待つなら、と歩くことにした。移動距離は長かったものの、ほとんど歩いていない。ここで歩いておいた方が晩御飯も美味しくなるだろうという幼稚な期待も多少あった。
初めて歩く街に心を躍らせ、最初こそ足が軽かったが、すぐにバスにすればよかったと後悔した。ジリジリと熱い街。歩道の隣の大通りにはたくさんの車が往来している。徐々に日が落ち、遠くの空が赤くなっていく。ちょうど進行方向にある夕日は何にも遮られることなく照りつけてくる。夕方の涼しい風なんてものはなく、通り過ぎる車の巻き起こす熱風と、時折商店の入り口から吹いてくる冷房の風くらいしかない。扇子で仰ぐも吹く風は、あいも変わらず熱風で。面白そうな店もいくつかあったが、この荷物では入れそうにない。目ぼしい店を記憶して、明日の旅程に組み込もうと考える。サンダルの紐が痛い。少々歩く程度なら気にならなかったそれも、一度気になり始めると嫌なものだ。
暑さに耐えきれず、通りがけのコンビニに寄る。いつも使っているコンビニと大して変わらない店内風景。そこに旅の風情なんてものはないが、背に腹は変えられない。
買ったサイダーを片手に店を出る。狭い歩道で一息つきながらそれを飲むような場所はなかった。できればベンチに座りたい。カバンからスマートフォンを取り出して、パッと地図をみる。ああ、あった公園! ちょうど旅館に行く途中だ。しかも大きな川がある。未踏の地の川沿いの公園で、サイダーを片手にひとり。悪くない。できれば河川敷で、少年野球でもやっていてくれたら嬉しい。野球好きとかそういうのではないけど、夏の河川敷によく映えそうだ。どんな川だろうかと期待しながら歩く。まだ足は痛いが、もうすぐ休めると思うとそれも耐えられる。
川に着いた私は少し拍子抜けした。思っていたのと少し違った。想像していたのはなんというか、草がたくさん生えていて、河川敷で野球をやっている少年たちやボール遊びをしている犬、たまに釣りをしている人がいるようなそういうものだった。しかし眼前に広がるのはコロコロした石で埋め尽くされていて、野球をしている少年も犬も釣り人もいない、やたらと二人組が目立つ、そんな河川敷だった。
なんだ、と思ったが、しかしこれも旅。思い描いていたものとは違ったがそれもまた一興である。私は土手から河川敷に降りる幅の広い階段の最上段に腰をかけた。川が近いから涼しい、ということはなかったが、一息つくことができればそれでよかった。
プシュッとサイダーを開ける。喉の渇きに一気飲みしたくなったが、お腹がパンパンになってしまうのでその欲望を抑える。選択を間違えた。喉が渇いている時にサイダーなんて買うんじゃなかった。そう思いながら少しずつ飲む。渇いた口の中に弾ける感覚と果物とはまた違った純粋な甘さが広がる。一口、また一口と飲み進める。前言撤回。やはり喉が渇いた時はこうでないと。
二人組が多くて、少し寂しい気もしたが、なかなかに居心地が良くてゆっくりしてしまった。立ち上がり、荷物をもち、再び歩きだす。靴擦れになっていたところには絆創膏を貼っておいたので心配はない。川を渡る途中、川上の方を見た。少し先に見える山に向かって伸びる川。その上にじっと居座る夕日。川の水面に反射して、きらきらとそのかけらが目に飛び込んでくる。川の中州には小さな鳥が、そしてすぐそばの浅瀬には鷺が逆光で黒く動いていた。その景色に、さっきまで恨めしかった夕日を、少し許す気になった。
川から宿は思ったより近かった。チェックインを済ませ部屋に入る。和室の六畳と少し。これだこれ。まさに旅館というその雰囲気に気分が上がる。中居さんが入れてくれたお茶が冷えていて美味しい。一人で使うには大きい机。その上にはリモコンと丸い箱が置いてある。ご飯まではまだ時間があるし、すぐにお風呂に入る気もしなかった。畳の床に置かれた座椅子に座って空間を味わう。蝉の声がする。さっきまでは鳴いていなかったのか、それとも聞いていなかったのかはわからないが、初めて聞こえた。聞き慣れない蝉の声だ。蝉の声を堪能した私は机の上に置かれたリモコンに手を伸ばす。ついたのは見慣れたCMだった。この時間だときっとどこの局も夕方のニュースだろう。続けて机の上の箱を開ける。中にはよくある、お煎餅が入っていた。硬くて、素朴な味で、でもそれがかえってくせになって、そして何よりお茶との相性が良かった。テレビから聴きなれない音楽が聞こえてきた。見れば地方銀行のCMだった。ああ、これがまたいい。旅に来たという感じがする。
六畳間を楽しんだ私は、お茶と煎餅をもちEXステージへと歩みを進めた。そう、旅館やホテルの和室にはつきものの、あの窓際謎空間である。確か名前があった気がするが忘れてしまったし、この際名前などはどうだっていい。畳じゃないのは日差しで傷まないようにするためだったような気がするな、と思いつつ椅子に腰をかける。窓の外を見るとちょうど夕日が沈み終わったところだった。日が沈み暗くなった街は、都会ほど明るくはなかったが、それでも人の営みを感じるくらいのちょうどいい明るさだった。山は静まり返り、さっきまでたくさんの人がいた河原の人影もまばらになっていた。窓を開ければぬるい風が吹き込んできた。だけどそれは不快ではなくて、むしろ心地よいものだった。気づけば私は、すでにこの旅に満足していたのだった。
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