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桜井志音という女の子について
———夏祭りの夜、私は雨で泥濘む山道に立っていた。
生暖かい夜風が吹く、山に続く獣道に影が一つ立っている。薄っすらとした月明かりに照らされる道を、下駄を鳴らしながら歩いてくるのは一人の男だった。すらっと背の高い華奢な体つき、闇の中でもはっきりと分かる美しい銀髪。布のようなもので顔を隠した男は、艶やかな朱色の着物を纏っていた。
人間、と呼ぶにはどこか浮世離れした出立ち。
たとえ田舎町といえども、赤い着物に下駄というのは、まともではないと思った。
けれど、私の頭には逃げるという選択肢はない。無言で近づいてくる男に、何故か懐かしい匂いを感じたのだ。瞬きを忘れ、ただ瞳に男の映していると、直ぐ目の前で立ち止まった。
「志音、もうなにも考えなくていいよ。頑張ったね。たくさん辛かったよね。これからは僕が一緒にいてあげるから」
そう言って差し出される手。
厚みのない大きな手。ああ、どうしてこんなに懐かしいのだろう。
私は心の向くままに、その手に自分の手のひらを重ねた。
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