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三 謙信を継ぐ者~御館の乱~
輝虎(謙信)は自ら子を持たぬかわりに、景勝の他にも数人の養子を迎えていた。畠山義統は謙信が制した七尾城主の子であり、山浦景国は、武田に国を終われ上杉の客将となった村上義清の息子であった。
そして今ひとり、北条氏との同盟により、相模から迎えた養子がいた。
北条三郎景虎である。
三郎はある意味、景勝と正反対の質の男だった。
見目もよく、人当たりも柔らかく、弁舌爽やかな青年だった。
傍目には、輝虎(謙信)は大層この青年を可愛がっているように見えた。
が、初名を与えたことについて、とある重臣が尋ねたおりに、
『三郎には名前くらいしか与えてやれるものがない故な.....』
と洩らしていた、と景勝はその者から聞いた。輝虎(謙信)からすれば、三郎はあくまでも人質である。北条と割れれば命は無い。同時につけ入られる隙を見せれば戦の火種になる。
扱いには厳重を要する。
思い詰めた景勝が、
『あのことは.....』
と唇を震わせてひそと訊くと、
『まさか』
と微笑んだ。そして、眉をひそめて耳打ちした。
『わしが去ねば、越後は割れる。ずっとそうであった。だから、狼狽えてはならぬ。上田長尾・府中長尾の惣領として最良の道を行け』
そして、雪の深い夜更け、謙信は突如倒れた。数日は保っていたが、意識の戻らぬまま還らぬ人となった。
最後まで傍らに付き添っていた直江景綱の娘、お船の謙信の遺言を預かったという証言から景勝が、後継者となった。
いまだ信じきれぬ思いで、景勝はお船に問うた。
『お舟どの、まことに御実城さまは、そう申されたのか?』
お船は一段と低い声で、
『景勝さまは、ご存じのはず』
とそれだけ言って廊下を立ち去っていった。
景勝は謙信が言い残した『越後が割れる』ことを恐れ、厳正・厳密に事を処していこうとしたが、これが仇になった。
発端は、謙信の懐刀であり、その初陣から支えてきた本庄実乃の子息らを中心とする栃尾の者達と、景勝の出自である上田長尾の重臣、与板衆との間に起こった。
それに関東への帰還を望む上杉憲政らの一族、そして越後併呑を目論む北条氏の目論みのもと、三郎景虎が春日山の三之丸を出て、上杉憲政の居館に入り、叛旗を翻したのだ。
まさに越後は、上杉はふたつに割れた。そして周辺の大名はおしなべて景虎の側についた。
正しくは景勝の敵になった。越後上杉の勢力を削ぐことを目論見とした介入に景勝は苦戦を強いられた。
唯一、謙信の宿敵であった甲斐の武田信玄の後継、武田勝頼だけが、双方の調停に立った。が成立はならなかった。
上杉の内にあった反上杉、親北条勢力を残存させるわけにはいかなかったのだ。
戦いはおおよそ一年近くに及び、上杉は多大な兵力を失い、景勝は妹とその子らを失った。
景虎の妻となっていた景勝の妹は景虎が御館から逃亡する際に置き去りにされていたのだが、景勝の許に帰ることを拒否して自害した。
『兄上が人を赦すとは思えませぬ』
景勝は妹の最後の言葉にいたく傷ついた。がかといって国人衆の機嫌の取り方など知らぬし、取ることが良いとは思えなかった。
景勝は生前の謙信の言葉を再び思い出した。口数の少なすぎる景勝を憂慮して家臣が進言した時に、扇を軽く手のひらで遊ばせて、ニヤリと笑った。
『わしも、相当に言葉の足りぬ性質ゆえのぅ。宇佐美や直江に随分と世話をかけたわ』
景勝はこの言葉に救われた。
そして、この痛みに満ちた内乱ののち、言葉に秀でた信用のできる者を傍らに置くことを必須と認めた。
与六ー樋口兼続と狩野秀治はその信頼に答え得る数少ない人材だった。
そして、狩野の病没のあと、与六の存在は景勝の中で、一層、重い存在となった。
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