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「主人は本当に仕事熱心でね、ずっとお店に出ずっぱりでしたの」
「数日前、それはお伺いしましたね」
山岸は加奈子に対しそう答えた。加奈子の表情に少しだけ安堵の色が見え隠れしている気がした。自供を始めた犯人が時折見せる顔だ。
「でも、たまに帰ってきた主人の顔はお店でのそれとはまるで違ったわ」
加奈子の瞳の奥に、怒りと憎しみの炎が灯っているのを山岸は感じ取っていた。
「夫はかなりの癇癪持ちで、気に入らないことがあると私に手を上げることがしょっちゅうあったんです。そのくせ外づらだけは良くて。周囲にとっては優しくていい夫、そしていい父親。そして困った人に手を差し伸べる人格者。このイメージが作られてしまっていたので、私は助けを求めることができなかったんです」
淡々と供述する加奈子の言葉に山岸は耳を傾ける。白壁の取調室の中には加奈子の声だけが響いていた。
「困った人に手を差し伸べる人格者と、妻に安易に手を上げる夫……随分と違いますね」
山岸の言葉に、加奈子は頷いた。
「でもその印象がついたのって、夫は金に困った人にすぐお金を貸してしまう人だったからなんです。明らかに返ってこなさそうな相手にも貸してしまって、そしてしまいには、家を買う頭金にしようとして貯めていたお金にも手をつけてしまっていて」
質素な暮らしの背景にあった事情を前に、山岸は胸が詰まる思いがした。
「随分と耐えられたんですね。でもまたどうして堪忍袋の緒が切れてしまったんですか?」
「あの平野って男の借金、競馬で作ったそうですね。その借金を夫は肩代わりしようとしたんです」
「あの引き出された200万ですか?」
加奈子は頷いた。
「あれに手をつけることだけは私には許せなかったんです」
「それは、どうしてですか?」
「息子の進学資金のために貯めていたから。医者になりたいっていう息子の夢があのお金には詰まっていたんです。それなのに、それなのに……!」
加奈子が強く握りしめた右手の爪が、手のひらにぎしぎしと食い込んだ。
「ちょっと、どういうつもり?」
今から4日前、オーシャンブルーのキッチンで加奈子は三塚を問い詰めていた。
「平野の借金をあの金で肩代わりしてやろうと思ってる」
「あの子の受験はどうなるの?お金払えなくなるのよ?」
「そんなの、近くの中学にやればいいさ。わざわざ受験なんてさせる必要ない」
「医学部の受験はそんなに甘いものじゃないわよ。夢を叶えるために、ちゃんとした環境を揃えてあげないと駄目でしょ」
「平野の才能は一流だ。それを潰したくはない」
「その平野とかっていう人と息子と、どっちが大事なの?」
加奈子はついには烈火のような怒鳴り声を上げた。
「この包丁一本で平野は世界を変えられる。俺はその才能を開花させるためなら何だってやるさ」
三塚は調理台に置かれた柳刃包丁を眺めつつ、そう答えた。加奈子の心がパリンと音を立てて、壊れた。
「あんたなんか、あんたなんかっ!!」
加奈子はそう叫んだときには、柳刃包丁を両手で握りしめていた。うめき声を上げる三塚に何度も何度も包丁を突き刺す加奈子。加奈子が我に返ったときにはすでに三塚は息絶えていた。
「それから先のことについては刑事さんのおっしゃる通りです。柳刃包丁から指紋を拭き取り、そして近くの銀行で預金を引き出しました。あんな奴、あんな奴っ!」
加奈子はそう大声をあげると、机に突っ伏した。目尻から熱いものがとめどなく流れ出ていた。
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