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「悪いことは言わない。その事件から手を引け」
警部の鬼塚は山岸にそう強く念を押した。
鬼塚が言っている「その事件」とは、2日前に起こった。駅前の繁華街にあるダイニングキッチン・オーシャンブルーでオーナーシェフの三塚が柳刃包丁で滅多刺しにされ殺害されたのだ。その捜査線において重要参考人として名前が上がっているのはその店舗の従業員・平野孝明だ。
「警部。私には平野がホシだとはどうしても思えないのです」
「……山岸。確か平野はお前の幼馴染だったな?捜査に私情を挟むのは禁物だ。だからこの件から手を引けと言っている」
鬼塚は冷たく、しかし迫力のある声でそう言い放った。
「捜査に私情を挟んではいけないということは百も承知です。ですが、やはり平野が三塚を殺めたというのは私の中ではどうしても不自然な感じがするんです」
山岸は食い下がるようにそう訴えた。
山岸と平野の縁は今から20年ほど前、小学3年生の頃にまで遡る。クラス替えで同じクラスになった山岸と平野はあっという間に仲良くなり、互いの家にしょっちゅう遊びに行く仲になっていた。
平野の部屋をはじめて訪れたとき、山岸は驚いた。平野の学習机など部屋の至るところに沖合でカレイ釣りを楽しんでいる写真や魚市場を見学しに行ったときの写真などが飾られていた。
「将来、魚屋さんになりたい」
目をキラキラと輝かせながらそう言っていた平野はジュースを飲むときにも寿司屋で出されるような湯飲みを使っていた。鯛、鮭、鮃、鰰……小学生とは思えない渋いチョイスの瀬戸物を何度も見たせいか、山岸もいつしか魚偏のつく漢字をいくつも覚えてしまっていた。
山岸は数ヶ月前、オーシャンブルーを訪れていた。小学校の同窓会があった日の夜のことだった。
「今から作るから待っててくれ」
平野はそう言って柳刃包丁を手に取ると、慣れた手つきでサーモンをさばき始めた。滑らかな包丁の動きに、嬉々としたその表情。それを見るだけでも平野が料理人という仕事を誇りに思って取り組んでおり、そして心から楽しんでいることが十分すぎるほど伝わってきた。手分けして作業をする三塚との息もぴったり合っており、子供の頃の夢である魚屋とは違えど平野が「天職」を得たのだと直感的に思えた。
「人間関係なんて表面上だけではわからないものだ。それに、最後に見たのが数ヶ月前なんだろ?人間の関係なんてものは数ヶ月でガラッと変わってしまうことだってある」
鬼塚警部はそう釘を刺すが、それでも山岸の胸の支えは取れなかった。
輝ける居場所を築き上げた平野。
あんなに魚が好きだった平野。
その平野が、仕事道具の柳刃包丁を人殺しのために本当に使うだろうか?
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