その事件から手を引け

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 翌日、山岸は再びオーシャンブルーを訪れていた。 「急で申し訳ありませんが、明日は有給休暇を取らせてください」  山岸の申し出に鬼塚は眉を顰めながらも、 「いいか?深入りは禁物だぞ」  とだけ告げて、届出書を受理していた。  オーナーシェフのいない昼のオーシャンブルーはがらんとした雰囲気になっており、その中で1人の女性が荷物の整理をしていた。 「すみません」  山岸は女性の元へと近づき、胸元から手帳を取り出して見せた。女性は軽く頭を下げて山岸をテーブル席へ促す。  女性の名前は三塚加奈子。殺されたオーナーシェフの妻であった。 「主人は本当に仕事熱心でね、ずっとお店に出ずっぱりでしたの。特にここ数年は新メニューを考えたりお店を広げることを考えたりで忙しくてね」 「かなりやり手な方だったんですね」  山岸がそう尋ねると、加奈子は複雑そうな表情を浮かべながら頷いた。 「そうね。あの平野さんとかいう人を雇ってから、随分と主人は変わりましたね。平野さんに任せる店をちょっとでも早く作らないとと言って、それこそ張り切って」  山岸は深く頷いた。やはり平野は真面目に仕事をしており、三塚から厚い信頼を勝ち取っていたのだーー山岸は少し安堵した。 「平野に新しい店を任せようとしていたんですか?」  加奈子は山岸の問いに対し複雑な表情を浮かべながら首を縦に振る。 「あんまり儲かっている店ではなかったんですけどね。どうも主人は『一目惚れ』したらしいんですよ」 「一目惚れ、ですか……」  山岸がそう訊き返した瞬間、加奈子の顔が一瞬曇った。 「初めて平野さんがサーモンのカルパッチョを作ったとき、その包丁使いと料理の手際の良さ、そして盛り付けの美しさに目を奪われたそうなんです。ソースの味付けも抜群だったそうで。平野さんは間違いなく超一流のシェフになる、三塚はいつもそう言っていました」 「そうだったんですね。ちなみにご家庭での三塚さんはどういう感じの方だったんですか?」 「さっきも申しましたけど、主人は仕事一直線で家庭を顧みない人でした。息子ももうすぐ中学生になるんですが、一切のことは私に投げっぱなしで。ですから、息子も私も家庭ではあまり主人の顔を知らないんです」  山岸には、加奈子の目の奥に三塚に対する怒りがふつふつと込み上げているのが見えた。 「お時間をくださりありがとうございます。あ、そうそう。最後に一つ質問なんですが」 「何でしょう?」  加奈子が訊き返す。 「息子さん、もうすぐ中学生なんですね」 「そうですが」 「お子さんはお元気なんですか?」  山岸の問いに対し、加奈子は穏やかな面持ちで口を開いた。 「今、中学受験に向けて猛勉強していますよ」 「へぇ、中学受験ですか。大変ですね」  「どうやら野口英世の伝記を読んで医者になりたいと思ったらしくて。でも医者になりたいのなら先は長いです。どんな壁があっても、乗り越えないと」  加奈子の姿から、山岸は一本芯が通った母親の姿のようなものを見て取った。
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