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「右手が失くなった。」
彼女はそう言って右腕を上げた。固定はされていない。ただ、右手があるはずだった部分が無い。細い腕の先は包帯が手の形を再現することもなく、不自然な丸みを帯びているだけだった。
「切断したのかい?」
「うん。もう元に戻ることも動かすこともできないと言われたし、人目に晒せるものでもなかったからね。」
彼女は淡々と言った。色素が薄くグレーにも見える瞳は不自然な程に穏やかだ。
「どうして、そんなことになったんだい?」
至極当然の問いに、彼女は困ったように首を傾げた。瞳に、少しだけ困惑が宿る。
「わからない。」
「え?」
「授業をしていたら、急にそうなった。チョークは持てなくなるし、子どもたちは混乱するわ怯えるわで、それはそれは大変だった。」
彼女ははぁ、とため息を吐いた。表情こそ変わらないが、落胆しているのは瞳を見ていればわかる。
「子どもに限らず、普段仲良くしている先生方にも気味の悪いものを見る目を向けられた。まぁ、これは仕方がないと思うけど、中には『化け物の手だ』なんて言っている人もいた。うつったらどうする、だとか。」
「それは由々しきことだ。」
「本当に。こちらだって、好きであの状態を招いたわけじゃない。正直怒りを覚えたよ。末代まで呪ってやろうかと思った。」
「それは恐ろしいな。」
「冗談だよ。」
彼女は笑った。ちゃんと笑っていたが、いつもより哀愁を帯びた笑顔だった。
そして、その笑顔のまま、そっと口を開いた。
「さて、私と別れるなら今だよ。」
「......え?」
思考が停止した。
彼女は笑っていた。しかし、その顔は泣いているように見えた。
「私の隣のクラスで授業をしていた貴方は、子どもたちの悲鳴にすぐに駆けつけた。見たよね?私の手。おぞましかったはすだ。赤くて黒くて茶色くて白くて、どう表現しても、あのおぞましさは伝えきれない。」
「まぁ、見ていて心地よいものではなかったかな。」
「そうだよね。そして、原因は何もわからない。どうしてそうなったのかも、感染するのかどうかも。...そんな気持ち悪く、不気味な目に遭い、右手を失った女と、今後、交際も同棲も続けていく必要はない。感染する可能性もある以上、私と不必要に触れあうのは避けた方がいい。だったら、私とは別れて別の」
「何言ってるんだい。別れないよ。僕は君の右手だけに惹かれたわけじゃないんだから。」
「......え?」
色素の薄い彼女の瞳が見開かれた。悲哀に彩られていたその瞳に、今は驚愕が渦巻いている。
「確かに、急にどうにかなってしまった右手は直視できるものじゃなかった。だけど、君は君のままなんだから、僕が君から離れる理由にはならない。」
「いや、それでも右手はもうないし、もし貴方にもうつったらと思うと」
「あぁ、その心配をしてくれていたのかい?大丈夫だよ。その時はその時だ。君とお揃いになって、逆にいいかもしれないよ。」
「そん、な。」
彼女はそう呟いて、黙ってしまった。表情はあまり変わっていないけど、瞳には嬉しそうな色が宿っていて、僕も嬉しくなる。
「そんなこと...とはいえないけど、この出来事で、僕から君を奪わないでおくれ。」
「...うん。」
彼女は笑った。はにかむような、とても愛らしい笑顔だった。
たまらなくなった僕は、座っていた食卓の椅子から立ち上がり、彼女のそばに行った。そのまま頬に手を添えて、唇を寄せる。
少し強張っていた彼女も、深く口づける頃には、僕に身を委ねてくれた。
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