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(『香月が美容師になったら、俺を一番最初の客にしてよ』)
「〝香月が美容師になったら、俺を一番最初の客にしてよ〟ってやつ」
私の心の中の声と、翔の穏やかな声音が重なる。
「で、でも……」
「大丈夫だ。志乃ならできるよ」
彼はいったい、どこまで覚えているんだろう。私のように全部を覚えているとは思えないけれど、少なくとも私が大切にしていた思い出の一部を鮮明に記憶してくれている。
だって、あのときとまったく同じ言葉を口にしたから。
「失敗するかも……」
「坊主にならなきゃいいよ。髪なんてすぐに生えてくるから、肩の力を抜いて」
なんだか難しい注文だ。肩の力を抜いてヘアカットするなんて、今の私には考えられない。ただ、それがエールだというのもわかるから、息をひとつ吐いて頷いた。
その後、どこで切るかと相談して、大きな鏡があるパウダールームに決まった。
ヘッドスパ用のチェアは角度を変えられるため、カットにも向いている。愛用していた商売道具は手入れをしていたから、すぐにでも使える。
「本当にいいの?」
「ああ、もちろん」
シンクの周りにハサミやコームを並べながら再度尋ねたけれど、翔の気持ちは変わらないようだった。濡らした髪を拭き、ケープをかけた彼と鏡越しに目を合わせる。
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