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プラグ
悦男の母が入所している高齢者施設の面会室は、応接室と言っても
よいくらい綺麗かつ広かった。
一応「遠縁の親戚」という事にして、信子は悦男の母に会いに行った。
面会室に入って来た悦男の母は認知症がかなり進行していて
まともに会話すら出来ず、もう何も覚えていないし覚える事も
無いらしい。
それでも一目見る事で信子は満足し、施設をあとにした。
とりあえずお勤めは果たした。
私の中の悦男よ、気分はどうだ?
私はハッキリわかった。
認知症になって自分の名前すら分からなくても
やはり悦男の母は生きているんだ。
当然じゃないか、と誰かから突っ込まれそうだが
信子は今まで、悦男の母の様に何もかも忘れてしまい
自分の記憶や経験全て忘れてしまった者など
「動いているけど生きているか死んでいるか分からない者」と
評価していた。
しかしどれだけ認知症がその人を空っぽにしても
生きている以上、その人は誰の中にも住めない。
どんなに何も出来なくても、そこで生きていくんだ。
いやむしろ、もう全て役目を果たしたから
生きながらにして、神がその人の中身を削除し始めたのでは無いだろうか。
どうせいつかは死ぬのになぜ生まれてくるのだろう。
悦男も私も子孫を残していない。
悦男も私も死ねばそこで終わり、命のバトンは誰にも渡せず地に落ちる。
例え子孫を残していなくても
偉大なる学者ならその知識を
スーパースターならファンに感動を
企業のトップならその仕事や財産を
多くの人々に残していける。
それもまた命のバトンを繋いだと言えるだろう。
命のバトンを次代に繋げれば、それだけで生きている意味があると
思う事が出来るだろう。
私は命のバトンは繋げないし、学者でもスターでも無い。
しかし生きている意味はそれ以外にもある筈だ。
それを見つけたい。
哲学者になった訳でも、仏道に目覚めたわけでも無い。
崇高な人間になった訳でも無い。
それでも「生きてる意味をみつけたい」なんて思ってしまった。
理由はただ、そう「気になってしまった」から。
もう、本当に気になった事を放っておけない自分が嫌だ。
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