自転車なくした栗原さん

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「私達は、何か間違えたのかしら」  真顔で生徒会長は少年に問うた。本来解決すべきはラクロス部の歪な状況そのものであって、栗原一人を取り除いたからと言って状況は何も変わっていない。結局、問題を解決するには至らず、現状をごまかしたに過ぎないのだ。  それを生徒会長は是としていなかった。 「いいや」  オレ達は、ただ、選択を与えただけに過ぎない。一人の女の子を救ったこと、それ自体は尊いことだと思う。ラクロス部の問題は、別に解決すべき問題だ。  何も間違っちゃいない。 「間違えるとすれば、これからだ」  カップに入った甘いカフェオレをグッと一息に飲み込んで、少年は真理愛と目を合わせた。凛々しい顔は、どちらの瞳にも映っていた。 「つーか、あのイケメンはどうした?動いてくれてんのか?」 「今のところは手筈通りにやってくれているわ。尤も、君の提案だってことに少し不服があるようだけれど」 「だとしたら、オレが直接何かを言うのはやめることにするわ。みんなが言うことを聞く人間がリーダーにはふさわしい」 「それはどうかしら」  真理愛はいそいそと荷物をまとめ、私は生徒会の仕事があるから。と続けて言うと、少年に向けて手を振って相談室から出ていった。  一人残った少年は、夕暮れの空に照らされて、呆然とするも束の間。 ―――帰るか。  夕日が差す教室をあとにして、運動部の掛け声が響く校庭を横切った先にある校門を過ぎると人影が1つ。こちらに気付くと手を振っている。 「……お疲れ様、です」 「栗原か。どうした……って。ま、良かったな」  晴れやかな表情をしている彼女を一瞬見て、少年は理解した。この件が無事終了したと。今夜はアイツと盛り上がれると。 「先輩に聞きたいことがあって…………」 「なんだ?」  栗原は深呼吸して、ゆっくり少年の方を見た。 「最初に会った時の、活動限界が近いって、なんですか? あれだけ動ける野球経験者がそんなにヤワな体力であるはずないと思うんですけど……」  言ってたな、そういや。 「栗原、カクテルパーティー効果って知ってるか?」  栗原はわかりやすい。 「説明を変えよう。聖徳太子が10人の話を同時に聞けるって逸話は知ってるよな?」  知ってます。と、とても真剣な顔をする。 「オレはそれができる……の逆パターンだ。オレはそれしかできない」  栗原はわかりやすい。 「端的に言えば、オレは聴覚障害者なんだよ。オレは選択的に音を聞くことができないんだ。残念ながら、1対1の会話であっても、静かな環境でなければ相手が何言ってるのか聞き取ることができない。脳が勝手に聞いてる音全てを解析しようとするからだ。…………人の多い駅前で、聞こえる音全部聞き取ってるのが、脳にどれだけ負担を強いているか分かるか?」 「でも、今、先輩は普通に会話できてますよね?」 「口元見て補正してんだ。聞こえないタイプの聴覚障害者は手話だけじゃなくて口の動きも見て判断していることも多い。今のお前の言葉も周りの雑音でなんだかよく分からねえんだけど、言いそうなことを予想して、その予想通りに口が動いていれば、音だけに頼らなくて済むからな。だから、本当に大事な話がしたいなら、静かな場所で頼むわ」  沈みゆく夕日が栗原の戸惑いを照らしている。それを置き去りにして少年は歩き続けた。さらりと話したが、少年はこのことを信頼できる人にしか話していない。いつだって理解されず、それどころか蔑まれ、いつしか少年は人と関わることに消極的になっていった。  これを説明したところでどうにもならないってわかりきっている。どうせまた、距離を置かれておしまい。この世はいつだって、まともに会話ができない人間は誰にも相手にされない。なんとか会話できるようになるまで10年はかかった。 「聴覚障害……」  ほらドン引きだ。障害に見えない分、余計に質が悪い。 「なんでもねえ。今言ったことは全部忘れてくれ」  小石を軽く蹴飛ばして少年は前を向いた。  なんで話しちゃったかなぁ。 「まぁいいや。じゃ、オレはこっちだから」  目を閉じて歩く少年の目には家路が映る。音だけで彩られた、モノクロの世界。人と話すより、景色を耳で見るほうがずっと容易い。車のエンジン音、人の足音、自転車のブレーキ音、そして、オレを呼ぶ声。  迫る足音を避けきれず、しかし少年は立ち止まらずに遠ざけた。  声は、諦めた。  心では分かっている。無視したいわけじゃない。脳はもう休みたいと言っている。たくさんの雑音に負けそうになっている。  逃げるように歩いて帰宅した少年は鞄を部屋に投げ入れてシャワーを浴びた。真っ暗なシャワールームに響く水音。少年の目にはそれら全てがはっきりと見えてはっきり聞こえている。  大きくゆっくりと呼吸して、もう一度己に問う。栗原はもしかしたら理解者たり得たかもしれないのに、なぜ突き放してしまったのか。 「可能性でしかないから、かな」  バスタオルで体を拭きながら少年は頭を抱える。オレは何か間違えたのかもしれない。その後悔が片隅に残った。
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