自転車なくした栗原さん

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 程なくして少年はゲーム機のスイッチを入れる。ゲームの世界はリアルの世界と比べれば解像度も低く音も少ない。閾値の決められたデジタル世界は、少年にとって過ごしやすい環境だった。特に目と耳を専用のヘッドギアで覆うVRゲームは、現実世界から隔離された静かな環境に浸れる。  それを教えてくれたのは桐谷だった。  だから少年は桐谷がどんなに変態であろうと、その存在を認めている。 『我との盟約を果たしに来たようだな。遅いぞ』 『で、今日は何するんだ?』 『雪原にはびこるダイアウルフを捕まえて厳選しようと思ってな。耐寒装備と捕獲キットを持っていくのだぞ』 『あいよ』  ファンタジーな世界で生活するゲーム。家を作ったり武器を作ったりモンスターを飼ったり狩ったりできる。少年は鍛冶屋として戦闘はそこそこに、武器や防具を作るのを楽しんでいる。一方、桐谷は狩人として日夜エネミーを狩るか捕獲して遊んでいる。 『おにいちゃんやっぱり忘れてる!!今日はあたしと遊ぶって約束したじゃん!!』  見慣れたアバターが騒いでいる。今日は金曜日。すっかり忘れていた。 『わり、忘れてたわ』 『絶対忘れてると思ってた!こっちで張ってて正解だったね!早く来てよ!』  小さな魔導師はぴょんぴょん飛び跳ねるエモーションと指差しスタンプで少年を煽り倒す。ポップ音と動作音でやたらうるさい。 『……てなわけで、すまん、シャーディ。一旦落ちるわ』 『行ってこい。また会おうアッシュよ!』  桐谷は快く送り出してくれる。流石は少年が友と呼ぶ人物の一人である。懐が深く器が大きい。相手が大事にしているものを理解してくれるのは、彼の優しさがそうさせるのだろう。  そんな桐谷に彼女がいないのは不思議でならないが、多分彼が変態だからであろう。  ログアウトしてからヘッドギアを取り外し、服を着替える。 「で、どこで何するんだ?」  Watchappにチャットを流して杏奈の指示を仰ぎながら玄関を出た。 「カフェ・カッツェンエルンボーゲン……か」  そこは小径の奥にひっそりと佇むカフェだ。小径と言っても辺りは電飾で彩られて程よく明るい。尤も、少年の目には煩く映るのだが。人の目にはキラキラしているが少年の目にはギラギラチカチカと刺さる。  店の扉をゆっくり開けるとシックな茶色の内装。客は3人。女性の二人連れと、杏奈。従業員は渋いおじさまと、20代と思しきのお姉さん。そして猫が6匹。  杏奈は少年に気がつくと手を大きく振って喜ぶ。 「やっときたぁ!もう!」 「悪かったよ……。エスプレッソを」  お姉さんに注文を告げて杏奈を見るとニコニコして、へへ〜などと言っている。妹という生き物は機嫌さえ取ってやればずっと楽しそうにしている。楽しそうな妹はとてもかわいいので機嫌を取る気にはなる。 「それで、ここに呼び出したのは?」 「用がなければおにいちゃんを呼び出しちゃいけないのかな?」  真理愛と同じこと言うのかよ。 「みんなズルいんだよ」  妹が何か言い始めた。 「あたしのおにいちゃんなのに、あたしが一番じゃないっておかしいじゃん。あたしが一番おにいちゃんのそばにいていい存在なんだよ」  いつもの杏奈で安心した少年は、運ばれてきたエスプレッソを一口含んでから角砂糖を2つ投入する。カップの底を叩いてザラリと崩れていった。 「いや、その理屈はおかしい。オレの一番はオレが決める」 「おにいちゃんに選択権があると思った?」 「えぇ……」  妹によくある謎理論だった。もう13年も謎理論に付き合っていれば慣れるのも簡単だ。いや、その過程は並大抵ではなかったが、適当に受け流しておけば当面の間は問題にならないということを、少年は知っている。  今のところは、だが。 「パフェ食べる?」  生クリームをスプーンに乗せ、真顔で差し出す杏奈。  話題がふらふらと、花をあちこち訪れる蝶のように飛び回る。蝶を捕まえようとしても簡単に逃げられてしまうのでいつも眺めるだけにしている。  ああ。と、短い返事をしつつ、少年は差し出されたスプーンを掴んで生クリームをエスプレッソの上に落とした。クリームは熱いエスプレッソの上でじんわりと溶けていった。 「えぇ……」  妹は引きつった顔で少年を見る。 「で、話戻るけどよ」 「パフェのおかわり?」  どうしてそうなるんだ。 「それで、ここに呼び出したのは?」 「ああ、そっち? マスター! 例のあれ、よっろしくう!」  おじさまがカウンターの向こうからコーヒーカップを2つ携えてやってくると、それを少年の目の前に置いた。  少年は差し出されたコーヒーと一礼するおじさまを交互に見て、状況を理解すると1つずつ一口含んだ。 「2つの違いは、抽出温度によるものだろうけど……」  けど……と、言葉を詰まらせる。少年には少し引っかかる部分があった。  何か、コーヒー以外の味がする。  コーヒーにしては歪な苦味。喉に引っかかるこの感じ。  エスプレッソでは感じられなかった。  少年は目を閉じて思い出す。この味と似た味をどこかで感じた……。  気がつけばもう一口飲んでいた。 ――――そう、あれはドイツに行った時、現地で飲んだコーヒーの味。日本のものとはまるで違った、重厚で複雑で、広がる香りの中に独特の苦味。  あの味だ―――― 「2つとも硬水が使われている、から? ……なんとなく苦い」
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