自転車なくした栗原さん

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 杏奈がマスターの顔を見て、にかっと目を細めた。対称にマスターは目を見開いている。 「これは……これは驚きましたな。まさか本当に当てるとは」 「硬水で淹れたコーヒーを飲んだことがある。たまたま、だがな」 「温度の違いだと気がついたのはなぜです?」 「口当たりが違った。違う豆や抽出方法だったら香りも味も劇的に変わるが、両者はの違いはそういうところにはなかった。だとすれば、違いは温度の可能性が高いと思った」 「どーお?おにいちゃんの味覚は!すごいでしょ!」  誇らしげにふんぞり返る杏奈は、驚いた顔のおじさまを笑顔にするだけの力があった。はいはいすごいすごい。 「味覚はさておき、オレを試したのはなぜだ?」 「実は、私の味覚が変わってきているようなのです。以前と同じレシピのはずなのに味が違って感じるので頭がおかしくなりそうで……常連の杏奈君に聞けばあなたがとても優秀な味覚を持っていると。味覚の維持方法などを聞ければと……」 「まぁ加齢によって味覚の変化はあり得るが…………いや、それはあなたが変わったからではないかも知れない」  少年は思い当たる節を描いて老紳士の方に目をやった。当の本人は難しい顔をしたまま聞いている。 「産地や気候が変われば味も僅かに変化する。同じキャベツでも茨城県産と群馬県産は味が違うし作付けの時期によっては品種も変わる。今は本格的な夏物が出始めたから混在してしまって違和感がある……ってのはどうだ?」 「その考えだと、毎年味覚がおかしいと感じるはずではありませんか。しかし、おかしいと感じたのは1ヶ月ほど前からなのです」 「確かに、そうか…………としたら、1ヶ月前から変わったことは?」 「それに心当たりがあれば良いのですがね」  だよなぁ、と肩をすくめて少年はカウンターの奥へ目を動かすと見慣れた影があった。 「手伝いに来ましたよ叔父さん」 「栗原……!?」 「先……輩……?」  叔父さんの店、ですか。偶然というのはもう少し節操持ってくれないのか? 「…………さっきは」 「ごめんなさい!」  こちらが言う前に先手を取られた。しかもそんな大きな声で。 「そのおねえちゃんにそんな謝り方させるなんて、おにいちゃんまたなんかやらかしたの?」 「まあそんなところだな」 「うわー……ないわー……」  そこの妹、本気で引くのやめなさい。 「私の配慮が足りなかったんです……。先輩がいつも、そんなに辛い思いをしていたなんて」  なんか同情のされ方大きくないですかね。 「…………いや、言い過ぎたよ、オレは別にそこまで……違うか。ありがとう、栗原。オレは誰かから気にかけてもらうのが久し振りで……結構動揺してたんだ」 「違うよね?コミュ障だから返答に詰まって突き放しただけでしょ?」 「なんでそんなにダイレクトアタックできるんだよ。モンスターカードを延々とドローするのはやめろ」  最初に吹き出したのは意外にも老紳士の叔父さんだった。普段パフェをキャッキャしながら食べて猫を撫で回してるだけの常連客が、兄をここまで手酷い扱いにするとは思わなかったのだろう。笑いすぎてむせている。 「叔父さん! 大丈夫ですか!」 「もう、気をつけてくださいよ。血圧だって高いってお医者様にも言われたんでしょう」  水を入れたコップを差し出したお姉さん。手慣れた様子だった。 「……今なんて言った? 血圧がどうとかって」 「ムホン、ゴホン! そういえば、降圧剤を処方されましたな……」 「それだ!!」  机を叩いて叫ぶ少年は全て合点がいった。あーあー、そうかそうかなどと一人で納得すると興奮しながら早口で喋り始めた。 「降圧剤で味覚障害が起きることがある! 亜鉛がキレート効果で排除されるから生じるようだが、主治医と相談して薬を変えるか亜鉛をより多く取るかだな。亜鉛を取るにはレバーとか、ああ、レバーは鶏以外の方がいいぞ。あとは牡蠣にも多いし、手軽に取るならビール酵母がいい。亜鉛はもともと味蕾……味を知覚するための器官に重要な金属で」 「はいはいすごいすごい」  杏奈が饒舌になって止まりそうにない少年を無理矢理止めると、マスターに向き直して、にかっと笑顔を差し向けた。マスターは戸惑いつつも、杏奈の考えを汲み取ると見開いたままだった目を戻して少年に向けてお辞儀をする。 「お、おう、まぁ、なんだ。マスター、一般人は味なんて分かりはしないぜ。マスターが最高の状態だった時のレシピを信じればいいんじゃないか」  少年は無理矢理話をまとめると目の前の冷めたコーヒーを一気に流し込んだ。 「ありがとう少年よ。……君の、その味覚は素晴らしいな。味と香りの違いをこうもあっさりと、実に見事だった。…………料理もできると聞く。うちのカフェで働いてみる気はないかな? この老体にいつか訪れるであろう現実の前には最早、為す術がなくてな……後継が居なくて困っていたところでな……」 「そうか…………だが、済まない。オレは普通の人間じゃないからな。まともには働けねえ……」 「でも先輩に私は救われました。叔父さんだって救われました。先輩が普通の人間じゃないとしても、誰かを助けたその力は誇っていいいはずです」 「業を背負わされる身にもなってほしいもんだな……」  そろそろ行くか、と杏奈を促すものの、杏奈は猫をいじって帰ろうとしない。毛だらけになりながら猫をなでて恍惚としている。  諦めた少年は溜息を付いてもう一度座る。 「よし、いこう!」  タイミングお前タイミング。そういうとこだぞ。はいかわいい。  座った瞬間に立たされた少年はふと思い出した。 「料理ができればいいのか?」 「それは無理じゃないかなあ」  猫にバイバイしながら妹は言った。奥でお姉さんが皿を置く音がかすかに聞こえた。 「いくらあやめおねえちゃんが料理上手だからってまだ中学生だよ?バイトは高校生になってからにしたほうがいいよ」 「ふむ……それもそうか……。マスター、忘れてくれ」 「また来てください。その時はサービスしますので」 「そうするよ。栗原が手伝ってる姿もまた見たいしな」  後輩の耳が赤くなっているとも知らず、少年とその妹はカフェをあとにした。
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