自転車なくした栗原さん

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自転車なくした栗原さん

 黄昏時、少年は言う。今日は終わりだ、と。  初夏の夕空、午後5時を少し過ぎて。帰宅ラッシュがにわかに始まろうとしている駅前。喧騒の一つ一つが二人を包む。時計の長針が時を刻む音を微かに聞いて、少年は少女に目をやった。戸惑いを隠すのが下手な少女は本心から訪ねた。 「えっ、先輩、もう終わりですか?」  この少女が言うことはもっともだ。この時期の夕方5時。小学生だって外で遊んでいる時間だ。  だが少年は違った。 「オレの活動限界が近い。悪いな。もう無理だ」 「は、はあ……。わかりました」  女の子は依頼している身であって、少年に強要はできない。探し物を早く見つけたいのはやまやまだけど、頼った先がこの状態では不安が残る。そう思った彼女はまだ探そうとして、自転車置き場をまたイチからツアー旅行を始めた。  女の子とはその場で別れ、ただ一人、少年は学校へ戻る。駅から歩いて20分少々、中高一貫校の高等部の校内は部活に励む生徒たちでまだ活気にあふれていた。  出張から戻った少年は校舎の奥にある【相談室】のドアを開け、タオルを濡らして目を覆う。  ここ、【相談室】の室員は2人。生徒会長であり、室長の岸野真理愛(きしのまりあ)。  2年1組どころか学校全体を見ても他の追随を許さないほどの美貌、頭脳、運動神経の持ち主で、誰もが知る有名人。全校生徒と教師の圧倒的な支持を受け、この場この地位に立っている。そして彼女と釣り合うとは到底思えない、疲れ切った顔をしたこの少年。  サラサラの長い髪と、ボサボサの癖毛が対照的な二人。方や学校のトップスター、方や学校の問題児、それでいて真理愛と少年は互いに信頼をかける絶妙なバランスの上に成り立つ奇妙なコンビネーションを軸に、これまでいくつもの問題を解決してきた。  相談室には全校生徒からあらゆる相談が持ち込まれる。生徒会長が学校の問題を生徒から直々に聞き、それを生徒代表として教師側へ問題提起する。というのがこの部屋のコンセプトだ。生物部の部員だった少年は、幼馴染である生徒会長直々のご指名により相談室員となった。 「駅前は人が多くて君には荷が重かったかしら?」  生徒会長は、言葉とは裏腹に悪びれる様子もなくニコニコしながら問いかける。片手にはコーヒーの入ったマグカップ。その湯気から香る落ち着いた雰囲気が重なって、余裕と優雅が混在する佇まいがそこにはあった。 「取り敢えず位置だけ確認してきた。メモったから杏奈に渡してオレは寝る」  並べた椅子に体を預け、だらしなく髪の先から足の爪の先まで脱力する。ちょっと外へ出ると彼はいつもこんな調子で疲れ切ってしまう。そんな時は濡れタオルで患部を冷やし、瞼を下ろして休めておくのが効果的だということを少年は経験から学んでいた。  生徒会長はもう一つのマグカップにスティックタイプのインスタントコーヒーを入れ、冷め始めたポットのお湯を注ぐ。マドラーを回しながら、少年が寝る椅子の近くの机にマグカップを置いた。黒い点がくるくる回りながら茶色の泡の底に沈んでいく。 「インスタントしかないけど……コーヒー飲むわよね? 飲みなさい」 「助かるわ…………ん? あれ、そういえば真理愛。今日は生徒会の用があるんじゃなかったのか?」  濡れタオルをそのままに、生徒会長が居るであろう方向に話しかける。 「終わったわ。今日は君と帰ろうと思って待ってたのよ」 「何か用か? ……杏奈に、か。だったら、すぐ帰ろう」  濡れタオルを引っ剥がして目の周りを袖で軽く拭く。微かに頭痛が表れたが、家で寝たら治るだろう。少年は鎮痛剤と炭酸水をバッグから手探りで拾い上げるとそのまま飲み込んだ。それをインスタントコーヒーで流し込んで、むせた。炭酸水で無理矢理リセットすると懐かしい味が胃の中で弾けた。 「彩愛(あやめ)も連れてきていいんだぞ。そっちのおかーさんは……イギリスだっけか?また2人なんだろ?」 「君には関係ないわ」  眉間に2、3本シワを寄せた真理愛は一瞬歩みを止めたが、半歩からまた歩き出した。互いの家庭状況はよく知っているし、少年とその妹、真理愛とその妹の4人で行動を共にすることはよくあることではあったが。君には関係ない、と言ったのは彼女の思いの内にある、妹への感情そのものだった。 「そうか?オレとしては来てくれたほうがありがたいんだがな。どっちの親からも言われてるしな。…………、っと。どうやら言うまでもなかったな」  メッセンジャーアプリの通知を確認した少年はニヤリと笑った。  相談室を出て、学校を後にする二人。この時間、すれ違うのは自転車に乗った大学生ばかりだった。 「話を戻すけれど、今日の依頼の詳しい内容を教えてくれるかしら」 「それについては家に帰ったらにしないか?杏奈に話すの二度手間だしな」  差す夕日を背に、長い影を追う二人は互いの顔を見ることもなく話す。勿体つけられて、そう、と不満げに呟く真理愛の背中に、そっと追い風が当たった。 「ああ、そうだ。スーパー寄らないと」  不満を無視して少年はスーパーに立ち寄り、必要なものをいくつか買った。毎度のことながら、店内は情報量が多い。物の名前、値段、重さ、メーカー名、凝ったパッケージとポップ。吐き気がするくらい頭が痛くなってくる。  洗濯機から取り出したタオルみたいになりながら店を出た少年を、彼女は呆れた顔で見るのだった。毎度おなじみの光景ではあるが、こればかりはどうしようもない。  真理愛は自転車を引いて少年と肩を並べ、歩く。  疲労にまみれ、目を閉じて歩いている少年と共に。  そうやって目を閉じたまま25分。 「もうすぐ着くな」 「そうね」  大通りを抜けてマンションの前まで来たところで目を開けて周囲を確かめる。 「ドンピシャだな」 「君、本当は見てるんじゃないの?」 「導き手が隣にいるからな」  なるほどね、と彼女は言いかけたが、道中で対面の歩行者や自転車を避けていた。 「やっぱり見てるんじゃないの?」 「見てねえよ。……正確には音で見ている、かな」  世の中にはマウンテンバイクで野山を走る全盲の人間が居るくらいだ。この少年が見知った町並みを音だけで歩くことも不可能ではないのかもしれない。 「いつも思うのだけれど、音で世界を想像する方が脳に負担かかるんじゃないの?」 「いや、見る方がキツイな。人が得る五感の情報のうち視覚は八割を占めると言われてる。線や点がはっきりしてるし、多色に見えて、近くも遠くもよく見えるとタチが悪いぜ」  会話もそこそこにマンションの自動ドアが開く。二人はエレベーターに乗って上階へ。  4階にある一室。リビングにはパソコンをいじくり倒す少女が一人。キッチンにはフライパンをいじくり倒す少女が一人。 「おかえりぃ!ゲームにする?コーラにする?それとも…ポ・テ・チ?」 「よぉ杏奈、相変わらずハイテンションだな。早速だが、また例のごとく監視カメラの記録を盗んでほしい」  えーやだぁ、と駄々をこねる杏奈に対し、少年がスーパーの袋から取り出したのはやきとり味のポテトチップスだった。 「期間限定品だ。コイツが……」  ガサガサと音を立ててテーブルの上に2つ、3つと袋を並べていく。 「5袋あるわけだが……引き受けてくれるよな?」 「やったー!やるやるぅ!」  チョロい。 「WatchAppに場所のデータ送っといたから後は頼むわ。動画の解析はオレがやる」 「おーけーおーけー」  杏奈がパソコンの隣にスマートフォンとタブレット端末を並べて、3つを別々に操作していく。りんごが3つ。彼女は信者であるがアルカトラズから脱出している。 「やりながらでいいから二人とも聞いてくれるか」  うんうん、いーよー。と、視線すら向けず承諾する杏奈。聞かせてくれるかしら。と、目を合わせて促す真理愛。両者が聞く気になったので少年はとうとうと語り始めた。
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