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その紙をまじまじと見て、栗原は強く握りしめて叫んだ。
「先輩、頭おかしくなったんですか!?今の話の流れ完全に読み違えてませんか?? なんですか、この 退 部 届 って!!」
「その退部届は生徒会長に在り処を聞いて手配した正真正銘の本物だ。ありがたく使ってくれて構わんぞ。もちろん署名後の手続きはこちらで全部やるぞ」
しわくちゃになった紙を指さして飄々として少年は答えた。だが彼は、これは冗談ではない、と強調してこう述べた。
「お前が好きなのは、『部活』か?『ラクロス』か?前者ならその紙は破り捨てて良い。だが後者なら……部活以外も視野に入れて良いはずだ。お前の実力なら、たとえば大学生と一緒にプレーしても良いかもしれないぞ」
ぐっと堪えた口はへの字に曲がって、睨むその目は涙に潤んで、全身に力が入って肩が震えている。
「……悪かった。……いや、オレの狙いはそこじゃない。栗原、お前がいじめられている原因は上の学年のやっかみだ。監督が変わったのが一昨年、だとすれば3年生は監督の厳しい練習についてこれてるわけだから、彼女らはラクロスかあるいは部活が好きなんだろう。問題は勝利への執着心だが……」
「これでどうなるっていうんですか!」
栗原は紙を引き裂いて叫んだ。欠片が風に乗ってどこか遠くへ飛んでいくのを見て少年は確信した。
ああ、この人はラクロスもこの部活も好きなんだ、と。そして御託を並べすぎたと。
「分かった。この話はここまでだ。オレができることも、な」
憤る少女を一人残し、少年はフィールドを後にした。
「―――――てな感じで……悪い、失敗した」
頭を掻きながら悪びれる少年は、真理愛と目を合わせることもなくボソボソと話した。この件は完全に少年の失策だった。室長に相談もせず、自力で解決しようとして自爆した。
「問題ないわ。こっちで確認したことを鑑みれば、その作戦は失敗して当然よ」
パソコンを前にして少年を呼びつける。指し示した画面に映るのは、瀬尾戸に観せられたラクロス部の試合の一部始終だった。
少年は目を疑った。
栗原のプレーは確かに他のどの選手とも比べ物にならなかった。位置取り、読み、パスの正確さ、敵陣への切込み速度、どれをとってもゲームメーカーとしての役割をハイレベルでこなす怪物だった。それに松田、山口の2枚看板もいい動きをしている。
だが少年も真理愛も注目したのはそれら有力選手の動きではなかった。
「嘘だろ……こんなプレー…………」
「ええ。こんなこと認める訳にはいかないわ。問題にならない内に対処しないとね。……話は変わるけど、君は私に何か言うことないわけ?」
真理愛はその瞳を少年に合わせた。
「……? 何のことだ?」
「昨日、彩愛と風呂場で鉢合わせたでしょ」
「なっ!?」
「別に君が何かしたわけではないとは思うけど……事故であることは間違いないと思うけど」
少年は荒ぶる心臓を無理矢理押さえつけ、こめかみの汗に眉を一つも動かすこともできず耐える。目は左から右にゆっくり動いて止まった。
「彩愛を問い詰めたら白状したわ。尤も、君が動揺してたから何が起きたかは大体察しがついたわよ。君があれだけ動揺するのは、ね」
「そう……か……」
「デート、ねぇ……」
「……………別に蔑ろにしているわけじゃないぞ? デートって言ってもアイツのことだからまた釣りにでも行くんだろ。それか森で朽木割ったり園芸部の畑耕したり」
言い訳が詰まる。少年は平静を保とうと、ひたすら心を深い淵に落とし込む。掛け時計の秒針が刻む音が耳に痛い。
「あら、そうなの?じゃあ土曜日、楽しみにしてるわね」
したり顔で微笑みかける真理愛に、少年は目を閉じて頷く他なかった。オレの負けだ。
「行きたいところでもあるのか?」
少年は嬉しさを隠して彼女を見る。パソコンの電源を落として畳む姿は、仕方ないわね、と言っているように見えたが、それでも彼女は温かく微笑みかける。
「行きたいところがなければ、君と出掛けちゃいけないのかしら?」
生徒会長様はいつもお忙しいのだから、暇人 of 暇人の少年がお相手して差し上げるのは当然である。にこやかな表情を見たらもうそれ以上は追求できなかった。どこへ行くかより誰と行くかを楽しみにしてくれている、そんな生徒会長の心意気が少年の心を優しくもガッチリと掴んでいた。
少年は自己の弱さを知り、生徒会長の強さを知っている。生徒会長は少年の弱さも強さもよく知っている。
「まぁいいや。今日はもう帰ろうぜ」
いそいそと鞄に荷物を詰めていく少年。この先に待ち受ける困難をどう攻略するか、もう一度作戦を考えるためにも家に帰って仮眠をとることとした。
暗闇の中、置き時計を手探りで探す。枕元を4回滑らせ、掴んだものを撫でて、光る画面を寝ぼけ眼で確認する。
「4:16か……。シャワー浴びてもう一眠りだな……」
ベッドからずるずると、スライムのように動く少年は床を這ってタンスの前へ。替えの下着を取り出すと風呂場へ向かった。
外は既に明るさを取り戻し始めていることを窓の薄明かりが示していた。
シャワーヘッドから放たれる湯を頭に受け、少年はぼけーっとしながら、それでも頭の中を少しづつ整理し始めた。目を閉じて一つ一つ思い出していく。
昨日の夕方、栗原の説得に失敗し、試合の動画を見て、帰宅して、そのまま寝てしまった。帰った後の記憶が殆ど無い。部屋に入ったところまでは記憶しているものの、そこから今までの記憶は完全に欠落している。
「この体……どうしようもないのか……?」
シャワーに打たれながら嫌に思う。普通じゃないこの体に宿る特異な力。
人と違うことは悪いことじゃない。でも、違うことは、この社会では前提とされていない。必要とされていない。この社会は人と違うことに著しく不寛容で、排他的で、分かり合おうとはしない。少年はこの短い生の時間でそれを嫌というほど知っていた。
普通でないことは、その個人に対して強力な武器とも足枷ともなり得る。少年は今の所武器として使えてはいなかった。
「どうしようもない、よな」
カランを戻し、髪から滴る水をそのままに硬直する。思考する脳は未だ眠り続けていて、ただルーチンをこなすだけ。1分ほどの後、バスタオルで体を拭き始める。着替えてフラフラと部屋に戻り、もう一度ベッドの中に潜り込む。
虚無の暗闇に身を落とし、ただひたすら時を稼いだ。
そうしているうちにアラームが小さな音で鳴り始めた。
「……るせーな」
のそりと起き上がって置き時計を黙らせる。朝日がカーテンの向こうから照らしているこの部屋を後にして、少年は妹を起こしに行く。
「杏奈?起きてるか?」
ドアを2, 3回叩いて、起きていないことを確認すると少年は朝食の用意を始める。この家庭は朝パン派だ。卵をさっと混ぜて炒める。パチパチと油が跳ね踊る脇でベーコンが縮んでいく。
「おっはよー!おにいちゃん!今日も元気にがんばろー!おー!」
コーラを右手にポテチの袋を左手に、杏奈は騒がしくリビングにやってきた。起きた瞬間からテンションマックスなのは体質か、若さゆえか。いずれにしても、いつも通りの杏奈は少年の心を晴れにする。
「コーラとポテチは後にしな」
朝食をテーブルに運びながら少年は妹をたしなめた。それでも妹は全く悪びれる様子もなく、へへ~と笑いながら椅子に座った。これもいつも通りだった。テーブルについた妹は起き抜けだというのに、ものの数分で朝食を平らげてしまった。対照的に、少年はココアを1杯飲んで食事を済ませた。これもまたいつも通りだ。
「おにいちゃん」
「ん?」
とびきりの笑顔で少年を見つめる妹に対し、ろくでもねえなあと思いながら返事をする。
「金曜日デートだからね?わかってる?」
「ん?」
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