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人は、状況が分からないと薄ら笑いを浮かべてしまうものだ。少年はその場凌ぎで取り敢えず微笑み返した。話の前後が見えないどころか、記憶を掘り返しても欠片も思い出せなかった。特に予定はないはずなので差し当たって問題はないが……。
「おにいちゃん?聞いてるの?」
「ああ、悪ぃ。その件についてはお前がリードしてくれると嬉しいんだがな?」
カップを置いて、逃げるように部屋へ戻って扉を閉めた。杏奈が何を言っているのか皆目見当もつかない状況から、ひとまず脱出することに成功した。金土日と三連続でデートとは、まったくモテる男は辛いものだと自嘲気味に、そして歪に笑った。
真理愛は文句なく美少女、というには大人びていて形容が難しいが、とにかく大抵の男なら彼女にしたいと思うであろう容姿をしている。一本一本が風になびくほどサラサラとした真っ直ぐな長髪、鋭い目を長いまつげが包み、透き通るような声、細い顎、厚すぎない唇。しなやかで引き締まった肢体と上品で無駄のない所作。どこを見てもケチをつける隙がないほど、学園ナンバーワンの容姿を持つと言っても過言ではないのである。隣を歩くだけで幸せを感じられるだろう。
そんな真理愛の妹である彩愛もまた、タイプは違えども美少女であった。彩愛は姉と違って喜怒哀楽が豊かでかわいい。青空みたいに笑って、夕立みたいに泣いて。真ん丸な瞳は一点の曇りなくぱっちり開く。泣きぼくろのワンポイントが大きな目のアクセントになっている。栗毛に近い黒髪の癖毛は長さも相まってアレンジしやすい。ふわふわの綿毛を撫でて心の平穏を保つことも可能なほど、それは極上の触り心地をしているのだ。そして何よりも、いいメロンを持っている。
そして我が妹は元気いっぱいなのが取り柄だ。加えて頭脳は天才のそれだ。真理愛が全てに秀でているのに対し、我が妹は得意と苦手がはっきりしているタイプの天才だ。ムラがありすぎて学校のテストでは思ったほどの上位ランカーではないが、得意科目の瞬発力は他の追随を許さない、一点突破のポイントゲッターとして魅力ある存在だ。そんな頭脳にポニテとメガネのコンボが、紅茶にミルクと砂糖を合わせるが如くの相性で、はつらつ元気ガールのスコーン付きときたら愛でたいと思うのも無理はない。目に入れようが口に入れようが痛くはないと少年は確信している。
はっきり言っておくが少年はシスコンではない。
問題はそこではない。
「おにいちゃんそろそろいこー?」
「おう」
妹に促され少年は部屋を後にした。
ちょんちょん、と妹も後に続いて外に出る。
妹は少年の周りをうろちょろしながら歩道を闊歩する。時折少年に話しかけては少年が答える前に別の話を始めたり、猫を見かけては走り寄って撫でてやったりと、自由奔放なシャボン玉だった。
「金曜日のこと忘れてたでしょ」
ああ。と、少年は一言相槌してそれ以上は追求しなかった。
「まったくぅ。こんなかわいい妹が冴えないおにいちゃんをデートにつれてってやろうっていうんだから」
そう言うと妹は兄の手を取って引っ張った。少年はまんざらでもない顔をして、引かれるまま早足で学校へ連れて行かれた。二人が通う学校は、真理愛も彩愛も同じく通っている。少年と真理愛が高校2年生、彩愛が中学3年生、杏奈が中学1年生だ。
少年が教室に入るといつもどおりのざわつきが纏わりついてくる。誰も少年を気にも留めていないが不快なことに変わりはない。
少年は不快感を意に介すこともなく、つかつかと自分の席に着く。それと同時に前の席から詰められるのだった。
「貴様、我との盟約を放棄するとはどういう了見なのだ?」
窓際の前寄りの席の少年は悪びれもしなかった。
「ふん、一日程度で破棄されるほどオレと貴様の盟約は薄っぺらいものではなかったはずだが?」
「ぐっ……ふん、そういうことにしておいてやる」
腕を組んで桐谷は不満そうに前を向いた。背もたれに体をやや強引に預けて暫くすると、もう一度少年の方に振り返った。
「こ、今回だけだからな?」
「ああ」
この物語がラブコメだったら、このツンデレ桐谷はメインヒロインだったかもしれない。などと少年はふざけたことを思うでもなく、目を瞑ってホームルームが始まるまでの時間稼ぎをした。
尤も、ホームルームすら時間稼ぎでしかなかったが。
栗原を、ラクロス部をどうするか。解決の糸口がまるで見えない。
第一の問題、チーム内の不和をどう解消するか。スーパープレイヤー栗原に嫉妬し足を引っ張ろうとする勢力から逸材である栗原の保護。
そして第二の問題、監督の―――――
「おーい、日直。授業始まる前に黒板消しとけよ」
誰だよ日直……オレだった。
少年はのそりと起き上がると、担任が書いたダイナミックな書体のチョークを縦から消していった。手がほんのり白くデコレーションされて、少しばかり不愉快なその手触りを排除すべく、教室をあとにした。
ごわついた手を石鹸で擦って落とす。水道から流れる水の一粒一粒を手に這わせて洗い落とすと、一つの案を思いついた。栗原は退部届を破る前に言っていたではないか。
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