自転車なくした栗原さん

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「岸野美雪先生から紹介のあった桐波学園ラクロス部の栗原さんです」  栗原です、と深々と頭を下げた。正面に立つ大柄な男性は、そんなに緊張しないでいいと、その外見に見合わない澄んだ声で続ける。 「岸野先生から話は聞いています。茗渓大学ラクロス部の顧問をしている武田です。体育学部でコーチングについて研究しています。栗原さんは日本代表に選ばれるかもしれないくらい優秀だと聞いていますのでね。ぜひ、この大学の部の練習に参加してもらって、能力を伸ばしていって、ゆくゆくは日本代表として活躍できるくらいに成長してほしいなと思います」  じゃ、オレはこれで。と、少年は一礼して部屋を出ていった。彼女の問題はこれで一段落着いた。後は真理愛と瀬尾戸がなんとかしてくれるだろう。  既に日は地平線に口付けし、建物から溢れる暖かい色の光で道が照らされていた。すれ違う自転車の学生を避けながら、少年は敷地中央のどっしりとした造りの建物に足を踏み入れた。  少年は窓口で名前や住所を書いた紙を提出し、ゲートを通る。誰も喋らず、足音とページをめくる音のみが彼方に聞こえるだけの空間。少年にとってこれほど居心地が良い場所は自宅以外にはない。  奥の階段で5階にある自然科学の書架に足を運んだ。ジャーナルの新刊を選ぶ視界の隅に、見慣れた姿を見た少年は、手近な一冊を携えてその姿に惹かれて行った。  隣に座って横顔を見る。少し赤っぽい髪に赤いフレームのメガネを着けて、黙々としている表情はいつもと違っていてもやはりかわいいのだ。開いたページに注目していて隣に座っても気付かない程の集中力こそが彼女の武器であり、良さである。  少年は黙って自分が持ってきた本を開く。地球から200光年程の距離の場所に水がある惑星が発見されたという報告が書いてあった。プレスリリースでしか見てなかったものだったから気にはしていた。隣の彼女と同等の集中を本にぶつけた。  端から端、コラムまで読み進めた所で左に視線をくれてやると眼鏡越しの目がこちらを見ていた。 「終わった?」 「そっちは?」 「来たときから終わってたよ」 「じゃあ帰るか」  本を棚に戻すとエレベーターのボタンを押す。妹はニコニコしながらエレベーターの箱へ突入した。続いて少年も入り、ボタンを押して閉じた。ふんふーんと鼻歌交じりに、一瞬の浮遊感を飛び跳ねて喜ぶ妹は好奇心の権化に見えた。いや、そのものだった。 「今日はどうしたの?」 「例の栗原をこの大学のラクロス部に参加させた」 「へー。またおにいちゃんの計画通りだったんだね」 「まあ、な。でもこれで終わりじゃねえ。残りは真理愛とイケメンがなんとかしてくれると思うが……」  ふーん、と杏奈はレンズ越しに少年の目元を見る。薄く出たクマが誇らしげだった。 「ほんとにそれでいいのかな」 「と言うと?」  レンズ越しの目はこちらを見てはおらず階を示すランプをじいっと見ている。 「そのおねえちゃんはいいのかも知れないけどさ、他の人たちは、まるっとコミュニティ奪われるわけじゃん? それって本当に正義だって言えるの?」 「大丈夫だ。廃部にするわけじゃない。厄介そうな監督をオサラバするだけだ」 「ふーん」 ―――金曜日 「先輩、成瀬先生が……」 「退部を認めねえってか?」 「そう……です……」 「そりゃそうだよなぁ……」  机に突っ伏して頭を抱える少年の脇でコーヒーを愉しむ生徒会長はまるで他人事のように微笑んでいる。そして開口一番、 「何を悩んでいるのかしら。突っぱねればいいだけじゃない」  そう言って二人を見下ろした。 「あのな、誰もがお前みたいに強いわけじゃねえだろ」 「どうして?」 「どうしてって……生徒に自転車どっか捨てられるようなやつが教師からの圧に対抗できるわけねえだろうがよ」  確かにそうね、と生徒会長はマグカップを置いて指差した。 「これが今のあなた。そこにミルクと砂糖を入れる……。これなら飲めるようになるでしょ?」  いや、それは本末転倒だろ? 「それは会長のお墨付きでやるってことか?」  栗原はまだ理解していないらしく、目がふらふらと彷徨っている。 「いいえ、あくまでも後ろ盾。コミュニティを失った栗原さんの足がかりに過ぎないわ。私も理解はしているのよ。独りで戦うことの難しさはね」  生徒会長は少年を目だけで一瞬捉え、再び栗原を見る。  手続き上は退部扱いになっているわ、と付け加える。 「それでも……私は…………」 「義理堅いのは分かるんだけどよ」  少年が割って入った。今まで頭を抱えていたその腕を机の上に置いて、隣の栗原を見もせず前を向いたまま喋る。 「イイヤツはいつだって損をする立場なんだよ。いつもイイヤツだから分からねえのかもしれねえけど、大体の大人は汚いしズルいし立場を利用したパワープレイを平気でやりやがるからな。やる側になるとそれは楽だし潰れたら次を探すだけだし」 「そこまでにしなさい。君の恨みつらみはリアリティがありすぎて、聞いてるだけで精神が参ってくるのよね」  ムスッとした顔で少年を威圧する生徒会長の目を見たら、それ以上は何も言えなくなった。  そんな二人のやり取りを目の当たりにした栗原は、張っていた気が緩んだのか。クスリと笑って、そこから堰を切ったように笑いだした。  笑いながら泣いていた。  一頻り笑って出た涙を拭って、吹っ切れたその顔で、宣言する。 「やめるって、ちゃんと。話してきます。私は、ちゃんとしたラクロスがやりたい」  ありがとうございました。そう言って彼女は相談室を出て走って行ってしまった。
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