第一章③ side;カド

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「燎司、ちょっといいかな」  自室のドアをノックされて、俺はスマホを下に向けた。ぐちゃぐちゃのベッドから降りて、だらりとドアを開ける。 「兄ちゃん」  ドアの前でにこやかな笑みを浮かべて立っていたのは、十個上の兄だった。 「おかえり。実家帰ってくるの久しぶりだな」  俺は半年ぶりに会えた兄に挨拶をした。  兄は地方の大学で研究員として働いていて、普段は一人暮らしをしている。いつの間に帰ってきたのだろうか。 「来週からこっちで学会があるからさ。ついでに帰ってきたんだ。元気……ではあんまりなさそうだね」  兄は俺よりも少し高い声で話かけてくる。容姿も似てはいるが、兄は幾分か穏やかな印象だ。  「え」  そんなにもわかりやすいだろうか。 「進路にでも悩んでいるの。それとも、恋とか」   兄は俺のベッドに腰掛けて聞いた。 「……まあ」  俺が曖昧な返事をすると、兄は優しい顔をした。幼い頃の俺に向けてくれた表情と一緒だった。  兄弟の束の間の時間が流れていく。 「兄ちゃんはさ、どうして研究員になろうと思ったの」  ハルのことを話すのが気恥ずかしくて、俺は進路の話を聞く。こちらも決めなければならないのは同じだ。  兄は天井から垂直にぶら下がった、この部屋の明かりを見上げて口を開いた。 「そうだなあ。俺は熱中するのが唯一の特技だったからかな。それから、勉強が好きだから。マイペースだしね」  兄はやや鋭角な顎に手を当てて、考える素振りを見せた。 「兄ちゃんも弁護士になれって言われてたよな」  兄も俺と同じ中高一貫出身だ。プレッシャーと向き合うにはどうしたらいい。 「うん。でも、俺の人生だからさ。それに俺は闘争心が低くて。一つのことに執念深く向き合い続ける方が向いていると思って。まあ、親父には呆れられたけど。説得したさ」  兄は色々なものと戦ったのだろう。俺にできるだろうか。  兄の背中はいつだって遠い。 「燎司も弁護士に向いてないと思ってるんだろう」  兄は苦笑をした。 「そう思うか」  俺は罰が悪くなって目を逸らす。 「うーん。星を探しにいくと思ってるから」  兄は目を瞑って、随分と優しい声を出した。 「どうして」  俺からは、思い詰めた声が出た。 「小学生くらいの時、言ってたじゃん。ほら、今でも本棚に天文の本がたくさんあるし。夢なのかと思っているんだけれど、違ったかい」  兄は、ベッドの前にある俺の本棚を見て言った。そこには、小学生の頃から集めたお気に入りの天文関連の本が並んでいる。  窓辺には誕生日プレゼントにもらった天体望遠鏡が置いてある。  兄は知っているのだろうか。俺がいまだに、ここから星を探していることを。どうせ見えもしないのに。  買ってもらった小学生の頃は、あまりに見えなくて兄に泣きついた。望遠鏡があれば、どこでも星が見られると思っていたのだ。 「まあ、法学部向けの参考書も同じくらい並んでるけどね」  兄は苦笑して言う。  本棚の隅に追いやられた参考書たちはプレッシャーを視覚化し、年々積み上がっていった。綺麗なまま、今日まで捨てられずに、ただ並べられている。俺も弁護士にならないと言ったら、父は失望するだろう。 「俺は、星を探しに行きたいのかな」  探してもいいのだろうか。周りの期待を裏切ってまで、探すべきなんだろうか。 「燎司、二組だよね。理系国立大学受験クラス。まあ、別に文系も受けられるけどさ」  その通りだ。法学部を受けるつもりだったら、ハルたちと同じ佐藤のクラスでよかったのに。気の合わない大元のクラスになると知っていて、俺は理系の二組を選んだ。 「自分は探せないと思っているのかい」  兄は大人の顔をして俺と向き合った。手には俺の地球儀が久々に大回転している。  そんなふうに簡単に世界を手にとることができたなら。オーロラを隠し持つ、紺碧の夜空さえ手にすることができるだろう。  そうしたらハルだって、俺の手の中に落ちてきてくれるような。 「自分で決めるのは怖いよな。誰のせいにもできなくなる。全部自分で責任を持たなきゃならない。でもそれが、夢を追いかける覚悟ってやつだと俺は思うよ」  兄は言う。現実が身に染みた言葉だった。  夢を追うのは怖い。夢は夢のままにしておいた方が、醒めずにいられる。その分、叶うこともないけれど。 「夢を失うのとどちらが怖いのだろう」  俺は兄の目を真正面から捉えて言う。俺に似た姿をした、何歩も先を見てきたその目を見る。 「俺は失う方が怖かったから、夢を見たよ」  兄は、地球儀の回転を止めて俺を見た。 「燎司はどうだろうね」  兄はまた、優しい顔をして問いかけた。  誰も人生の答えを教えてくれる人はいない。そもそも、誰も知らないから、わからないのが当然で、迷うのがあたりまえ。それでも、どうにか自分の歩く道を決めて、這いつくばって歩いていくしかないのだろう。それを繰り返してやっと、歳をとるのだろうか。 「まあ、どんな道に行っても、結局険しいと思うからさ。険しさの種類がちょっと変わるだけで」   兄は続ける。迷うことを責めない大人の姿。  そんな兄さえも、まだ迷うことがあるのだろうか。見えないと知っていて、星を探す夜はあるだろうか。難しいと知っていて、誰かをたまらず抱きしめることがあるのだろうか。  俺には、まだうまく見えないけれど。早速、法学部の参考書を紐で縛ろう。そして、明日の朝には、明るい空に浮かぶ星に手を伸ばそう。
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