第一章④ side;ハル

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「はーい。気をつけて運動しなさいね」  養護教諭の高瀬先生の声が耳に響いて、目を覚ます。  気がつけば僕は、制服を着たままで保健室のベッドの上にいた。時計を見ると、午後五時を少し回ったところ。もう放課後だった。  どれだけ眠っていたのか。頭が割れそうに痛い。 「っー……」  声にならない音を漏らせば、ベッドを閉じていたピンクのカーテンが、「シャッ」と、こ気味いい音を立てて開いた。急に光が入り込んできて、初夏の強い光に思わず目を伏せる。 「三倉くん、起きたのね。倒れて随分眠っていたけれど、おかしいところはないかしら」  ゆっくりと再び目を開けると、高瀬先生が白衣を着て立っていた。 「先生、頭が痛いです。バカになったかも」  僕は明るく笑う。自分の声が頭に響いて痛い。  おかしいことだらけだよ。正しいことを教えて、先生。 「バカは元々でしょう。全く。本当におかしいところはないのね」  先生はいつもの調子の僕に呆れている。  これ以上傷つくのが怖いから、好きな女性の前で僕はふざけてばかりいる。  先生は一体どれだけの生徒の心配をしてきたのだろう。これからどれだけしていくのだろう。僕が半年後に卒業しても、きっと何も変わらず、違う誰かのおふざけに巻き込まれているのだろう。  僕は少しも特別になれない。わかっているのに、手を伸ばす。生命力を見せつけるみたいに悪あがきをやめられない。もう、苦しいのに。 「うん。自分の体調が読みきれなくて、めまいを起こしただけだし。本当、バカなだけだから」  僕は体にかけられた、清潔な匂いの白いタオルケットに向かって喋った。 「あなたはバカじゃないわよ」  先生が真面目な顔でさっきと正反対なことを言う。 「自分にも人にもいつだって全力なだけよ。迷うのにも全力でしょう。頑張っているのね、三倉くんは」  また、先生の首元のネックレスが眩しい。  誰にもらったの、なんて聞かなくてもわかっている。  ネックレスが落ちかけの太陽に反射して、目が痛い。それだけ主張をしないと、僕みたいな身の程知らずが湧いて仕方ないのだろう。目を閉じることだけが僕に残された唯一の抗う術だ。芸がない。  それでも、懲りもせず目を閉じる。カーテンを閉じてもいいのに、僕にはそれができない。先生といる時間を失わないために。 「そんな大それた男じゃありません。僕は」  掌に視線を落として呟く。カドと繋いだ右手。  僕から握らせたようなものなのに、同じ力で握り返す器量さえないのです。 「きっとなるのよ。素敵な人の隣でね」  宥めるように先生は笑う。もう何回、僕は振られているのだろう。  先生は僕の前で、張り詰めた仕事中の大人の顔しか見せてはくれない。清廉で、知識があって、涙なんて流したこともないような澄まし顔。  それなのに時折、柔らかさを影が象って、女性の顔が見え隠れする。すぐに消えてしまうから目を離せなくなって、気がつけば夢中だった。影の正体が先生の色香だと言われても、僕は疑えない。  みんな、そんなのは気のせいだって、一時的な気の迷いだって、僕を説き伏せにくるだろう。身近な大人の女性に憧れているだけだって。本気の恋愛じゃないって。そんなの、みんな好きだよって。  なら教えてよ。この気持ちが恋じゃなかったら、何。みんなが言う、本当の恋愛って何。何が恋で、何が憧れで、何が勘違いなのか。僕の気持ちを勝手に決めつけるなら、教えてよ。僕のこの気持ちを責める権利があるとするならば、僕と、先生と。それから、カドだけだ。  でももう、この気持ちにも疲れてきた。毎分毎秒、先生といれば振られているようなものだから。
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