33人が本棚に入れています
本棚に追加
「ハル。もう起き上がっても大丈夫なのか」
廊下を力強く叩く音が段々近づけば、先生の代わりに、陽を背に担いだ練習着姿のカドが立っていた。太陽がやっぱりよく似合う。
その姿にひどく安心したのは、掌の温もりを覚えているからだろうか。カドと二人だとうまく喋れないのはなんでだろう。
「カド。ごめん。今日は部活は出れそうにないや。明日からちゃんとするから」
僕はどんな顔をしているのだろうか。睫毛を伏せたけれど、笑えているだろうか。
立ち昇り始めたこの気持ちを自覚してしまうのは、あまりに調子が良すぎる。
太陽は明るい。眩しい。怖い。それなのに、温かい。僕は、しっかりしなきゃいけないのに。
カドの視線は僕の右手にも向けられていた。僕は見たくなかった。
「そんなのいい。……家まで送って行く」
カドは少し怒ったように言った。鋭い眉毛をさらに険しくして、眉間に皺を寄せた。目には光の粒をたくさん浮かべて、真一文に唇を結んでいる。泣きそうにも見えた。下を向いてしまったから、よくわからない。
「石本たちが心配してたぞ」
カドは剣のある声で言う。
「うん。謝らなくちゃ」
僕はそれをなんとか呑み込んだ。
「俺だって、心配した」
カドは自分のつま先を見つめながら、言葉を投げてくる。
「うん。本当にごめん」
僕は何度目かの謝罪をした。また顔が見れなくなって下を向けば、自分の震える右手が視界に入ってしまった。
「違う。謝ってほしいわけじゃない」
顔を上げたカドの目からは、轟々と炎が燃えている。つま先から火を灯したみたいに。
「謝らせたいわけじゃない。違う。くそ」
カドは火力を落とさずに続ける。唇までも歪ませている。
「無理するなって言ったよな。聞けよ。俺がいなかったらどうするんだ」
髪を引っ張られて、強引に頭を上に持ち上げられる。胸ぐらを掴まれて、カドの左手が拳を振り上げた。
僕は力一杯目を閉じる。
「……なあ、頼むよ。俺が見えないところで勝手に消えないでくれ。また、泣いている気がして俺が我慢できない」
カドは決して殴らず、僕の胸ぐらを掴んだままだ。振り上げた左手には、爪がみるみる食い込んで鮮血が流れた。痛い。痛いよカド。
「ハルが元気に生きていることを、望むのさえ許されないのか」
カドは怒気を強めたくせに、聞いたことのない悲しそうな声で言う。太陽が泣いたら、僕の方が悲しくなるだろう。星は死んだらどこに行けるのかな。
カドはようやく目の中の炎を消す。陽炎ができて、僕だけを揺らいで映す。まるで、カドが泣いているみたいだった。
カドは血を流す左手を、タオルケットを握っている僕の震える右手に重ねる。
真っ白な清潔を謳うタオルケットに血をうつす。
そして、
「泣いてもいいから」
と、カドは祈るように諭した。
僕の手に口付けするみたいに優しく。気持ちを送るように確かに。
その瞬間、僕を好きだというカドの気持ちが、僕の指先から全身を駆け巡る。
カドの掌から流れる血が僕の細胞に触って、僕の体は沸騰し、血が入れ替わるのを感じた。流れ込んでくるカドの血は、熱さに嘔吐き、飲み込まれまいとする僕の自我をいとも容易く攻め込んできた。五臓六腑を奪われるような強さと、血管を優しく撫でるような侵食に、僕の心は狂ったように乱舞して、カドの指先を辿った。
音を立てるほどに循環する僕の体のすべては、もう目の前の男を欲しがっている。今まで目を伏せて気づかないふりをしていたものは激薬で、投与されたら呑み込むしか術がないような。
その強さに僕は魅了されていく。
そんなに僕を好きなら、恋ってなんだか、好きってなんだか教えてよ。
「もう笑えないかもよ」
僕は楕円に歪めた瞳から、涙をこぼして言う。涙の跡さえ愛されてみたかった。だからカドの前では泣いてばかりいるのかな。
「それでもいい」
カドは静かに告げる。それから血を滲ませたまま、僕をこの前みたいに抱きしめる。
掴まれていた僕のシャツの胸元には、皺が残った。
「泣きたくなったら俺に言って欲しい。すぐに駆けつける。もう泣き顔、忘れてやれないけれど」
カドの声が上から降ってくる。
もう戻れない。
「僕がまた言えなかったら」
カドの肩に顔を埋めて聞いてみる。
「ハルが言えない時はなるべく、できる限り俺が気付けるようになるから。だから、俺の前でだけ泣いて欲しい」
カドは必死に言う。陽炎はまだ揺らめいている。
ああ、人はこうして絆されていくのだ。僕は愛に弱い。愛が欲しい。もう、身を任せてもいいかな。僕、結構頑張って抗ったと思う。ずるくてもいい。それでもいいと言ってくれるのならば。
「……僕、きっとカドが思っているよりもわがままだよ」
僕は、カドの背中に腕を回して力を込める。くぐもった声が出た。
「おう。知ってる」
カドの息を飲む音が聞こえる。
「振り回すと思う」
もう振り回しているのに僕は言う。
「今更じゃないか」
カドも同じように答えた。
「……甘えるよ」
僕は恥ずかしくて、声が小さくなる。
「大歓迎だ。いつでもどうぞ」
カドから、笑いが漏れる。
「ははは。ハル、可愛い」
カドは上機嫌に肩を揺らす。
「ハル、こっち向いて」
僕は顔を上げる。カドはもう笑うのをやめて僕を真剣に見つめていた。
僕は思わず息を呑む。地球上のすべてに聞こえてしまったのではないかと思うくらいに、僕の音は響いた。
「好きだ。俺と付き合って欲しい」
そう言ったカドの目の中の陽炎は、まっすぐに僕を見ている。僕もまっすぐに見つめ返すと、僕たちの視線は平行線上に交わった。
こんなにも誰かと目を合わせたのは初めてで、僕の頬はどこまでも赤く染まる。
「本当に僕でいいの」
またしても委ねてしまう。自信がない。
「ハルじゃなきゃダメなんだ」
カドは何も恐れず、僕を好きだと言ってくれる。
「わかった。……僕、カドと付き合う」
熱に耐えられなくて、睫毛を伏せる。涙もすっかり温まっているだろう。
「ありがとう。嬉しい」
とても嬉しそうにカドは笑った。怒ったり、喜んだり。どこまでも真っ直ぐな男だ。
「俺、もう我慢できないからな」
カドはそう言うと、僕の顎を左手で手繰り寄せた。僕の顔にカドの血がつく。丁寧に上を向かせられて、カドとまた目が合う。
僕はすぐに睫毛を伏せる。今度は眠らないように、軽く。
「好きだ」
カドはもう一度告白をすると、唇に触れるだけの優しいキスをした。
どこからか入り込んできた風で、カーテンがなびいて、校庭から僕たちは丸見えになった。
「今はこれで勘弁しておく」
カドは唇を離すと、風音さえ抜けられないくらい近くで満足気に笑った。眉毛をすっかり下げて、陽炎を宿していた瞳をほとんど見えなくしている。
僕はきっと、おかしな笑い方になっているだろう。涙の跡もまだ残っている。顔に体中の血液が集まってくる。筋肉がまだうまく動かせない。
「じゃあ、帰るか」
カドはすっかり男らしい顔をして僕に告げる。初めてのキスは、なまぐさい味がした。
最初のコメントを投稿しよう!