第一章④ side;ハル

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「ハル。もう起き上がっても大丈夫なのか」  廊下を力強く叩く音が段々近づけば、先生の代わりに、陽を背に担いだ練習着姿のカドが立っていた。太陽がやっぱりよく似合う。  その姿にひどく安心したのは、掌の温もりを覚えているからだろうか。カドと二人だとうまく喋れないのはなんでだろう。 「カド。ごめん。今日は部活は出れそうにないや。明日からちゃんとするから」  僕はどんな顔をしているのだろうか。睫毛を伏せたけれど、笑えているだろうか。    立ち昇り始めたこの気持ちを自覚してしまうのは、あまりに調子が良すぎる。  太陽は明るい。眩しい。怖い。それなのに、温かい。僕は、しっかりしなきゃいけないのに。  カドの視線は僕の右手にも向けられていた。僕は見たくなかった。 「そんなのいい。……家まで送って行く」  カドは少し怒ったように言った。鋭い眉毛をさらに険しくして、眉間に皺を寄せた。目には光の粒をたくさん浮かべて、真一文に唇を結んでいる。泣きそうにも見えた。下を向いてしまったから、よくわからない。 「石本たちが心配してたぞ」  カドは剣のある声で言う。 「うん。謝らなくちゃ」  僕はそれをなんとか呑み込んだ。 「俺だって、心配した」  カドは自分のつま先を見つめながら、言葉を投げてくる。 「うん。本当にごめん」  僕は何度目かの謝罪をした。また顔が見れなくなって下を向けば、自分の震える右手が視界に入ってしまった。 「違う。謝ってほしいわけじゃない」  顔を上げたカドの目からは、轟々と炎が燃えている。つま先から火を灯したみたいに。 「謝らせたいわけじゃない。違う。くそ」  カドは火力を落とさずに続ける。唇までも歪ませている。 「無理するなって言ったよな。聞けよ。俺がいなかったらどうするんだ」  髪を引っ張られて、強引に頭を上に持ち上げられる。胸ぐらを掴まれて、カドの左手が拳を振り上げた。  僕は力一杯目を閉じる。 「……なあ、頼むよ。俺が見えないところで勝手に消えないでくれ。また、泣いている気がして俺が我慢できない」  カドは決して殴らず、僕の胸ぐらを掴んだままだ。振り上げた左手には、爪がみるみる食い込んで鮮血が流れた。痛い。痛いよカド。 「ハルが元気に生きていることを、望むのさえ許されないのか」  カドは怒気を強めたくせに、聞いたことのない悲しそうな声で言う。太陽が泣いたら、僕の方が悲しくなるだろう。星は死んだらどこに行けるのかな。  カドはようやく目の中の炎を消す。陽炎ができて、僕だけを揺らいで映す。まるで、カドが泣いているみたいだった。  カドは血を流す左手を、タオルケットを握っている僕の震える右手に重ねる。  真っ白な清潔を謳うタオルケットに血をうつす。  そして、 「泣いてもいいから」  と、カドは祈るように諭した。  僕の手に口付けするみたいに優しく。気持ちを送るように確かに。  その瞬間、僕を好きだというカドの気持ちが、僕の指先から全身を駆け巡る。  カドの掌から流れる血が僕の細胞に触って、僕の体は沸騰し、血が入れ替わるのを感じた。流れ込んでくるカドの血は、熱さに嘔吐き、飲み込まれまいとする僕の自我をいとも容易く攻め込んできた。五臓六腑を奪われるような強さと、血管を優しく撫でるような侵食に、僕の心は狂ったように乱舞して、カドの指先を辿った。  音を立てるほどに循環する僕の体のすべては、もう目の前の男を欲しがっている。今まで目を伏せて気づかないふりをしていたものは激薬で、投与されたら呑み込むしか術がないような。  その強さに僕は魅了されていく。  そんなに僕を好きなら、恋ってなんだか、好きってなんだか教えてよ。 「もう笑えないかもよ」  僕は楕円に歪めた瞳から、涙をこぼして言う。涙の跡さえ愛されてみたかった。だからカドの前では泣いてばかりいるのかな。 「それでもいい」  カドは静かに告げる。それから血を滲ませたまま、僕をこの前みたいに抱きしめる。  掴まれていた僕のシャツの胸元には、皺が残った。 「泣きたくなったら俺に言って欲しい。すぐに駆けつける。もう泣き顔、忘れてやれないけれど」  カドの声が上から降ってくる。  もう戻れない。 「僕がまた言えなかったら」  カドの肩に顔を埋めて聞いてみる。 「ハルが言えない時はなるべく、できる限り俺が気付けるようになるから。だから、俺の前でだけ泣いて欲しい」  カドは必死に言う。陽炎はまだ揺らめいている。  ああ、人はこうして絆されていくのだ。僕は愛に弱い。愛が欲しい。もう、身を任せてもいいかな。僕、結構頑張って抗ったと思う。ずるくてもいい。それでもいいと言ってくれるのならば。 「……僕、きっとカドが思っているよりもわがままだよ」  僕は、カドの背中に腕を回して力を込める。くぐもった声が出た。 「おう。知ってる」  カドの息を飲む音が聞こえる。 「振り回すと思う」  もう振り回しているのに僕は言う。 「今更じゃないか」  カドも同じように答えた。 「……甘えるよ」  僕は恥ずかしくて、声が小さくなる。 「大歓迎だ。いつでもどうぞ」  カドから、笑いが漏れる。 「ははは。ハル、可愛い」  カドは上機嫌に肩を揺らす。 「ハル、こっち向いて」  僕は顔を上げる。カドはもう笑うのをやめて僕を真剣に見つめていた。  僕は思わず息を呑む。地球上のすべてに聞こえてしまったのではないかと思うくらいに、僕の音は響いた。 「好きだ。俺と付き合って欲しい」  そう言ったカドの目の中の陽炎は、まっすぐに僕を見ている。僕もまっすぐに見つめ返すと、僕たちの視線は平行線上に交わった。  こんなにも誰かと目を合わせたのは初めてで、僕の頬はどこまでも赤く染まる。 「本当に僕でいいの」  またしても委ねてしまう。自信がない。 「ハルじゃなきゃダメなんだ」  カドは何も恐れず、僕を好きだと言ってくれる。 「わかった。……僕、カドと付き合う」  熱に耐えられなくて、睫毛を伏せる。涙もすっかり温まっているだろう。 「ありがとう。嬉しい」  とても嬉しそうにカドは笑った。怒ったり、喜んだり。どこまでも真っ直ぐな男だ。 「俺、もう我慢できないからな」  カドはそう言うと、僕の顎を左手で手繰り寄せた。僕の顔にカドの血がつく。丁寧に上を向かせられて、カドとまた目が合う。  僕はすぐに睫毛を伏せる。今度は眠らないように、軽く。 「好きだ」  カドはもう一度告白をすると、唇に触れるだけの優しいキスをした。  どこからか入り込んできた風で、カーテンがなびいて、校庭から僕たちは丸見えになった。 「今はこれで勘弁しておく」  カドは唇を離すと、風音さえ抜けられないくらい近くで満足気に笑った。眉毛をすっかり下げて、陽炎を宿していた瞳をほとんど見えなくしている。  僕はきっと、おかしな笑い方になっているだろう。涙の跡もまだ残っている。顔に体中の血液が集まってくる。筋肉がまだうまく動かせない。 「じゃあ、帰るか」  カドはすっかり男らしい顔をして僕に告げる。初めてのキスは、なまぐさい味がした。
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