第二章① side;カド

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第二章① side;カド

 夢じゃないよな。  俺、門田燎司は、部活の休憩時間に汗の垂れる左手で水道の蛇口を捻った。掌の傷痕に水が染みて痛い。この僅かに残っている傷痕が、あれを現実だと知らせてくれる。夢だと言われたら今度こそ俺が泣くけれど。  ハルと付き合ってからもう二週間も経つけれど、未だ信じがたい。  季節は蝉の鳴く声が耳につく、夏真っ盛りだ。午後五時を回っているというのに、太陽はどこまでも元気だ。校庭にいる俺たちの元気を燃料に動いてるのではないだろうか。  俺は太陽に奪われた水分を、蛇口から直接豪快に補給する。ごくりと喉が鳴る。あと少し、残りの練習への英気をやしなう。  それにしてもハル、よく告白を受け入れてくれたよな。  ダメ元でも、踏み出すことで奇跡を起こせる時があるらしい。  告白をしたあの日の俺は、ハルが倒れても尚、我慢していることに耐えられなくて、無意識に拳を振り上げていた。  ハルが目を閉じて怖がった時、やっと自分のしていることに気づいたのだ。殴らなくて本当によかった。自分が自分ではないみたいだった。  だからその勢いで告白して、キスまでできた。思いきって法学部の参考書を捨てたことが功を奏したか。 「暑いな。今年こそ干からびるだろ、これ」  隣の蛇口に石本がやってきて、呆れたように言う。石本は水を勢いよく頭から被って、かけている眼鏡を気にする素振りも見せない。頭の先から首元までビシャビシャに濡らしている。辺りの地面には、石本の髪から伝わった水が落ちていく。 「なんだ」  俺が不躾に見ていたせいだろう。石本は怪訝そうに声だけで俺を見てくる。 「メガネまでビシャビシャだぞ」 「いいんだよ。どうせ乾くし。暑いから丁度いい」  石本は、水滴だらけのメガネ越しで言った。 「お前、そういうとこあるよな。」  俺はいっそ関心すらする。 「どういうとこだよ」  石本は気に留めることもしない。 「豪放磊落」  石本を端的に表す四字熟語。意味を知った時、「石本だな」と言ったら、彼女の相原が大爆笑していた。 「そりゃどうも。カドの勇猛果敢には負けるけどな」  石本は、ニヤニヤしながら俺をみる。 「は。なんの話」  話の展開が見えなくて、俺は微かに眉を顰めた。 「強引とも言う。お前、ハルと付き合ってるだろう」  石本はニヤつきを加速させて揶揄うように言った。 「え。なんで知ってる」  しまった。驚きのあまり素直に返してしまった。言わない方がいいと思っていたのに。 「は。隠してるつもりだったのかお前。ハル見て一人で百面相してるからダダ漏れだったぞ。ハルはいつも通りに見えたけどさ。よかったな、カド。ずっとハルのこと好きだっただろう」  石本の声は後になるにつれて優しげになっていく。 「待った。俺がハルを好きなのも知ってたのか」  恐る恐る聞いてみる。 「そりゃ、あれだけアプローチしていたら誰でも気づくだろう。お前がハルを好きなことは、部員は確実に全員知ってるぞ。交際に気づいたのはまだ俺とカンナぐらいだと思うけどな。あと、それから佐藤もたぶん」  嘘だ。俺は水道場の石に突っ伏した。熱いし、硬い。俺はそんなにもわかりやすいのだろうか。自分ではアプローチはできていた気があまりしないのだが。ハルに申し訳ない。相原は幼馴染だから仕方ないとして、顧問の佐藤までもに気づかれている。  それに、俺がハルを好きなことを、誰一人触れなかったのが痛い。俺は情けない声を出して言う。 「頼む。俺たちが付き合っているのに気づいたこと、ハルには言わないで欲しい」 「どうして」  石本は怪訝な顔を隠さない。 「俺はいいけどさ、ハルは付き合ってること知られたくないと思うから」  ごめん、ハル。心の中でだけ謝る。 「男同士だからか」  石本はさらに怪訝な顔を深めていく。 「それもあると思う。でも、相手が俺なのは絶対に知られたくないはずだ」  あ。口に出すと少し悲しいかもしれない。 「……そうか」  石本は、急に無表情になる。俺はようやく顔を石本に向ける。 「石本の言う通り、俺が押して、押して、弱ってるところに漬け込み、付き合ってもらっているのだから。……ハルは、気の迷いかもしれないし。俺を好きなわけではないのだから。俺から手を離してやれはしないけれど、ハルが拒んだら終わりにするつもりだからさ」  話すぎたかもしれない。石本は痛みと闘う顔を浮かべた。友達思いな石本らしい反応で、俺は笑いそうになってしまう。 「カドはそれでいいんだな」  俺の前で傷つきまいと堪えている。 「だめなことなんて一つもない。それより、俺ってそんなに強引だろうか」  いいんだ、石本。だからそんな顔をしないでくれ。  俺は、下手くそな芝居を打った。明るく、自分を揶揄うように。 「……強引だな。まあ、お前の強引は今に始まったことでもないしな。それに、お前は優しいから、強引なくらいでいいんだ」  石本の眼鏡は水滴が大方引いていた。石本はその奥で、目を閉じている。 「なんだそれ」  今度こそ俺は、思うがままに笑って言った。 「わかった。ハルにはもちろん言わないし、誰にも言わない。カンナにも伝えておく」  石本は、俺が笑ったことに安堵したのか、いつも通り堅い声に戻った。 「なあ、カド。俺はもう気づいてしまったし俺には何言ってもいいからな」  石本は真剣な顔で俺を捉えている。 「石本、いろいろありがとな。助かるよ。それに、お前の方が優しいよ」  いい親友がいてよかった。心の底から俺は思った。 「ほら、練習再開するぞー」  佐藤の大きな声が校庭にこだました。俺と石本は駆け足で、残り少ない部活に戻っていく。    
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