第一章 ① side;カド

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 俺もあの時の兄と同じ、もう高校生も最後の初夏に差し掛かるというのに、まだ憧れの色は手に入れられていない。  憧れの色を見つけても、手に入らない。  だから傍で綺麗だと見惚れているだけ。  あの頃と同じ場所に住んでいるというのに、俺の身長は百八十センチを超え、日焼けに暑苦しい黒髪と、体ばかり大きくなってしまったせいで、満員電車の一部になった。  たった二十分の通学電車。乗り換えなし。  だが、東京の朝は毎分毎秒、ひっきりなしに人口が増えていく。ただでさえ狭いこの中央地に強引に飲み込まれていくから、酸素が足りないのかもしれない。 「はあ」  大学受験を目の前にしていても、大人への足掛りさえ掴めずにいる息苦しさと相まって、ついため息をついてしまう。  滞在時間を何倍もに感じて電車を降りる。  流されるままに人波に飲まれて、改札に向かう。規則正しい隊列を組み、自分だけ早すぎず遅すぎず。間違えても、決して立ち止まらないように。  俺はチャコールのパンツに、真っ白な半袖のワイシャツの制服を規定通りに身につけている。ボタンダウンをし、整えたロイヤルブルーのネクタイを締め、平たいネクタイピンを充てがっている。  「子供は宝だ」  そんな視線を周りの大人から向けられることがある。その度に、視界を塞いでしまいたいと思う。  胸ポケットの校章の輝きに、俺は押し潰されそうになっている。  やはり無理して私立の難関中高一貫校に入ったのは、身の丈に合わなかったのではないか。  憧れだったはずの立派な校門を今日も潜る。  ほとんど空の見えない、高い高い校舎へ入って、教室のある六階まで階段を登る。  俺は三年二組学級委員長を務めている。 「おはようございます。佐藤(さとう)先生」  見慣れた人影が見えて、俺は生真面目に挨拶をした。 「おう。キャプテンおはようさん」  顧問の佐藤。無精髭を生やし、中肉中背。やや色落ちしたジャージの佐藤は中年らしく気だるげで、緩い挨拶を返してくれる。  俺はサッカー部に所属し、キャプテンも務めている。 「門田、放課後は予定通り中庭に集合な。その後視聴覚室に移動してミーティングにしよう」  佐藤はそう言ってから、少し調子を落として続けた。 「どうして進路調査票を白紙で出したんだ。大元(おおもと)先生から聞いたぞ」  大元は俺の担任教師だ。まだ三十くらいの若めの男性教師で、常に眉を下げているような優男。視線を避けるような眼鏡をかけている。  委員長である俺が白紙で出したことに慌てふためき、顧問の佐藤に助けを求めたのだろう。 「お前、ついこの前まで法学部で出していたじゃないか。気でも変わったのか」  気がつけば廊下の奥まった場所に来ていた。  わかっている。目の前の佐藤は、白紙で提出した俺を詰りもしない。まして、手を煩わせたことなど気にもしていないだろう。  満員電車に乗って隊列を組んだ疲れが急に襲ってきたような気がした。口の中はよどんだ空を映したかのように重く、頭にまで酸素が回らない。  俺は意を決して乾いた唇を開いた。 「わからなくなったのです。俺、自分の進路がわかりません。父と同じく弁護士に、と育てられました。でも一度も弁護士になりたいと思ったことはありません。だからといって、弁護士が嫌なわけでもないのですが」  うつむきがちになっていく自分が情けない。 「そうか。他になりたいものでもあるのか」  佐藤は俺の青くさい言葉を笑わずに受けとめてくれる。 「それもわかりません。なので白紙で出しました」  適当すら書けない自分が恥ずかしい。これほどに方便が使えない自分が弁護士に向いているとも思えなかった。 「そうかわかった。それにしてもお前は本当に嘘がつけないんだなあ」  佐藤は軽やかに笑い、俺の頭を乱暴な手つきで撫でた。子供扱い。むず痒い。 「やめてくださいよ」  拗ねた自分の声はとても幼く響いて、ついに頭を垂れた。それなのに、足の疲れは和らいで、張り詰めていた肩の力が抜けた気がするから、正真正銘、俺はまだ子供なのだろう。軽やかに笑う佐藤から見たら特に。  俺だって、あの子の心をほぐしてあげられる人になりたい。心の中でだけ質問に答える。  佐藤のような器量があればきっと、オーロラに隠された憧れの色を手にできるはずだ。 「お前はさ、眩しいくらいまっすぐなところがあるからな。違うと思っていることを続けるのは苦しい性だろう。考えていることを口に出せたら足ががかりになるはずだ。じゃあ、また放課後な」  佐藤はニッと無造作に笑い、階段を下って行った。  俺は弾かれたように腕時計を見る。ホームルームの始まる時間が迫っていたから、急足で自分の席に着席をした。
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