第一章 ① side;カド

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 部活をしている放課後の校舎には、雨露霜雪が毎日更新されている。  外に出ればコンクリートだらけの東京の街中でも、校庭には土が全面に敷き詰められている。  だから雨が降れば有機的な生き物の匂いが立ち込め、靴の横まで泥だらけになる。晴天が続けば乾ききって元気のない土の上を、容赦なく生徒たちが踏みつける。  広い土の上に立っていると、たとえどんなに空が狭くとも、よどんでいようとも、大地は生きているのだとスパイク越しに踏みしめることができる。そして、伊吹に喜びを見出す自分は自然物の一部だと教えられている。  だから俺は、ここでサッカーをするのが好きだ。  進学校のここは、そこまで部活に力を入れているわけではないけれど、五年続けた部活も、あと一ヶ月足らずで終止符を打つ。  そうなれば、俺はきっとあの子と友達のままだ。  追いかけているサッカーボールもいつかオーロラの中に入って、俺には取れなくなってしまうかもしれない。 「カド、こっちパス」  カド、は俺のあだ名だ。  聞き慣れた声に顔を上げると、三倉春久(みくら はるひさ)が真剣な顔で俺に片手を上げていた。  三倉春久、通称ハル。  ハルは、佐藤のクラス、三年一組の男子生徒で高二の春に転校してきた。  色素が薄くて、サッカー部とは思えないような白い肌。滲み出た唇の血色と、見事に生えそろったカーブする長い睫毛。その下には、星を閉じ込めたかのような琥珀色の大きな瞳が埋まっている。瞳に呼応したように柔らかい茶髪は、襟足よりも長く、百六十五センチに満たない小柄な身体で俺の隣を走っている。女性に間違えられるほどの美男子。  俺の好きな人。  俺にはいつだって、ハルばかり光に照らされているように見えた。  初めて会った時は、こんなにも美しい男が目の前にいることを信じられなかった。  でもハルは、目を見張ったまま動けずにいる俺に、瞳をこぼして笑ってくれた。だから、昼間でも星が瞬くことを知った。  傍にいると度々伏せられる睫毛は光に透けながら、ハルの柔らかい頬に影をつくった。影を失くせば琥珀が覗くから、星の軌道のようで、俺は自然と重ねるみたいに、ハルの傍にいることが増えていった。  目を離せば、ハルはオーロラに閉じ込められてしまう気がしている。だからかハルは、琥珀を秘密にするようにいつも睫毛を伏せて笑っている。  「ハル、頼んだ」  俺の元にあったボールは、ハルの足元にじゃれ付くように回転していった。ハルはフォワードを遊ぶように交わす。 「ナイッシュー」  ハルは見事にゴールを決めた。弾けるような笑顔を見せるハル。ゴールを決めたときにだけ見れる笑顔。  ハルは俺を見て拳を上げていたから、俺もそれに重ねてハルを讃えた。 「よし。練習試合はここまでだ。視聴覚室に移動しろー」  佐藤の掛け声で、部員たちはぞろぞろと移動を開始する。  乾いた土の上を蹂躙した踵を開放して、名前の入った上履きに履き替えていく。廊下を歩いていく部員の足元からだけは、大地の匂いが漏れ出していた。  四階の視聴覚室に着く頃には、張り巡らされたコンピュータの配線と、部員の動脈が同期して大地の気配は取り込まれてしまった。 「さっきはいいパスをありがとう。ナイス」  視聴覚室の隣にはハルが座った。  またいつものように睫毛を伏せてハルは笑った。 「ハルこそ、さすがだったな」  俺は校庭と同じテンションで讃えた。そうしないと、好きの気持ちが溢れ出してしまいそうだったから。 「今から僕たちの初戦相手のビデオ見るのかー。あと二週間しかないんだっけ」  ハルは前のスクリーンに目を向けながら他人事のように言った。 「おう。初戦相手は去年敗退したとこだ。今年は絶対勝たないと。先輩たちの無念も晴らさなきゃな」  俺は先輩たちの顔を思い浮かべて、拳を握った。  スクリーンにはまだ何も映されていない。 「キャプテン、大活躍を期待しているよ」  そう茶化したハルは、何もないスクリーンに忘れ物でもしたみたいに静かだった。  珍しく見せられた隙に俺の心はさざめき立つ。 「あのさ」 「はじめるぞー」  俺がハルに声をかけた途端、佐藤がビデオを流し始めた。  いいのだ。俺には上手い言葉なんてかけられないから。今だって、口が勝手に言葉を紡ごうとしただけだ。  ハルは沈黙したままスクリーンを見つめていた。阿鼻叫喚する周りに合わせて、ハルもリアクションを取っている。本当は興味なんてなさそうだけど、ハルはそれを隠しているし、誰もそんなハルを疑っていないからそれでいいのだ。  俺はリアクションそっちのけで、ハルにかける言葉を考えていた。  好きな人の見せた寂しさは、俺を奮い立たせるには充分だった。  悲しい顔をしていれば笑わせたいと思うのに、笑っていれば俺のせいで泣いてほしいと思ってしまう。何かを隠して睫毛を伏せていれば、俺だけにそれを見せて欲しいと思い、傷付けば自分を頼って欲しいと思ってしまう。  身勝手な欲望を抱えて、友達のままでいるのはそろそろ苦しい。俺は恋人としてハルの心が欲しかった。  部活を引退すれば、教室の遠い俺とハルは頻繁には会えなくなってしまうだろう。俺には一大事だ。  何を言えばハルは笑ってくれる。
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