33人が本棚に入れています
本棚に追加
やがてビデオが終われば今日の部活はおひらきとなった。
情けないことに制服に着替え終えて帰る頃になっても、俺はハルにかける言葉を見つけられずにいた。使えない、俺の脳内辞典。
ハルは夏でも長袖のワイシャツを着ている。真夏でも七部丈にされた袖捲りは几帳面で、細い体は隠されるほどに、強調されていく。
まだ袖捲りもしていないハルは、すっかりいつも通りだ。見せた隙など幻のように、俺の友人部員と適当に雑談をしている。
俺だけがスクリーンに取り残されたままで。
「じゃあ、僕も帰ろうかな。コンビニで肉まんが新発売するんだって。楽しみにしてたんだよ」
ハルが爽やかな笑顔で言った。
「はあ。夏なのに肉まん発売するとか正気かよ。ハルも食う気満々か」
ツッコミを入れるのは副部長の石本拓真だ。ハルと同じ三年一組所属で、最近は黒縁の眼鏡をかけている。
「ハル、そんなに肉まん好きだっけ。でもおいしそう。いいじゃん、夏のほかほか肉まんも」
同じく三年一組で女子マネージャーの相原環奈が続ける。
石本、相原は三年付き合っているカップルだ。二人とも俺の幼馴染みでもある。中学受験のために通っていた塾が三人一緒だった。だから、小学生からの仲だ。
俺がハルと仲良くなれば、二人もハルと仲良くなっていた。
「じゃあ、私も行こうかな。肉まん。拓真も行こうよ」
「え」
「何よ。カワイイ彼女のいうことが聞けないの。タクマくん、モテないよお」
「こいつ、うるせー」
相原、石本が夫婦漫才を繰り広げている。おちょくる相原、照れ隠しが下手くそな石本、緩やかに笑うハル。何もかもいつも通りだ。
俺が微動だにしないこと以外は。
「ちょっと、カド。一言も喋らずに、どうしたの」
怪訝に思った相原が、ついに俺に声をかけてきた。
俺は勢いをつけて、ハルの前に直立した。座っていた椅子は床に叩きつけられて、ファンファーレかエンドロールかわからない音を鳴らした。
どのみち時間がない。砕けても踏み出せば変わると、佐藤は言っていた。
「ハル。その肉まん俺と行こう。アイスも付けるから」
俺は必死だった。
そうだ、好きなものを食べればいいのだ。
ハルはアイスが好きなのだ。去年の夏に美味しそうに食べていたから。
「ハハハ。どうしたの、カド。急に喋ったと思ったら、真面目な顔で肉まんの話なんて」
ハルは空気がたわむくらいに爆笑して言った。
あ。笑った。ゴールを決めた時みたいに、ちゃんと笑った。
「あー。カドがおもしろい。いいよ。アイス奢ってくれるんでしょう。カドと行く」
ハルは笑いすぎた涙を拭いながら答える。
やった。ハルは俺を選んでくれた。
「えー。ハル、私たちはー」
「しょうがねえから、カンナとは俺が行ってやるよ。ほら、デートだ。嬉しいだろう」
「なんか拓真偉そうなんですけどー」
カップルの二人は仲良く漫才を続行する。
「じゃあな」
俺はハルの腕を軽く引っ張って二人に挨拶をした。
「おう。またな。カド、あまり暴走するんじゃねえぞ」
石本が鷹揚に返してくれる。
「「バイバイ」」
ハルと相原の声が一緒にさようならをした。 俺とハルは聴覚室を出て、陽が落ち始めた校舎を抜けて行く。
最初のコメントを投稿しよう!