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人影が減った校舎は静かで、廊下に落ちた自分たちの影が賑やかしを頑張っている。
隣のハルが急に駆け出した。
「高瀬先生。さようなら」
一階の靴箱を目前にして、保健室から養護教諭の高瀬が出てきた。
高瀬は二十代半ばの女性養護教諭で、肩よりも少し長めの黒髪を顔の横で一つに束ねている。シンプルなトップスに、落ち着いた黒い膝丈のスカート。
ベージュのストッキングに、ナースシューズのような靴を履いていた。白衣を羽織り、いつからか首元には花をあしらった上品なネックレスをしている。
黒目が大きいそこそこの美人で、若いとなれば、男子生徒からの人気は凄まじかった。「保健医さんってだけでエロいのに、あんな若くて美人なんて本当最高、俺たちラッキー」というのが校内に響き渡る高瀬の評価だった。
ハルはそんな周囲の下劣さに密かに不快感を示すほど、高瀬のことが好きだ。きちんと恋愛として。
俺の恋敵。今、高瀬に会いたくはなかった。
だから俺は今日まであまりアプローチできずにいた。振られるのは怖い。
友達でさえいられなくなるかもしれないから。
「三倉くん、さようなら。それから、門田くんも」
高瀬は清廉な笑顔を俺たちに向けて、模範的に挨拶を返してくれる。
確かに、美しい大人の女性だと俺も思う。憧れられるのも当然だろう。
でも俺には、ハルがいつだって一番可愛いと思うのに。
「先生。僕ね、もうすぐ最後の試合があるんだ。あのさ、先生。僕たちの試合見に来て欲しい。先生が来てくれたら僕、頑張れると思うんだ」
ハルは見たことのないような真剣な表情で、高瀬にお願いをしている。
自分たちの影も賑やかしをやめたのか、あたりは静まり返っていた。
早くハルと二人きりの時間に戻りたいのに、ハルの真剣な気持ちが俺の喉を締める。
高瀬は少々困惑を浮かべると、すぐに教師の顔を取り戻して言った。
「三倉くん、誘ってくれてありがとう。予定が合えば見にいくね。最後の試合、私が行けなくても頑張るのよ」
高瀬の首元のネックレスが、知らぬ間に点灯した蛍光灯で白光りしていた。
ネックレスの強い反射光は俺の目にまっすぐ届いて、これ以上は踏み込ませない、と言っているみたいだった。少し前にいるハルには、何倍も強く白光りしただろう。
ハルは睫毛を伏せた。あまりの静けさに、上睫毛とした下睫毛が重なり合う、僅かな音も溢れてきてしまう。昇って行ったはずの星は輝く場所を失い、廊下の薄暗い色をさびしげに映した。
緊張をその場から打ち消すように、ハルは蛍光灯の白を瞳に照らして明るく言う。
「うん。じゃあ、予定が合うことを願ってたくさん練習しておくから」
星は何かを願う時、一体何に思いを任せるのだろう。俺とは違い流れ星すらないのだ。
「先生。待ってるから。忘れないでね」
ハルはとびきりの笑顔をつくって告げる。綺麗に笑っているのに、流れ星が消えてしまう瞬きのようだった。
高瀬の答えは俺にもわかった。
ハルの叶わない想いは、この廊下に落ちていく。その想いを拾うこともせず、ハルはただ、靴箱に向かって歩き出す。
さっきまでハルが笑っていて、幸せを噛みしめていたはずなのに。廊下には俺とハルの二人で完結していたのに。ハルは振り返らなくなってしまった。ハルはきっとまだ笑顔を貼り付けている。見なくてもわかる。
それなのに、ハルは泣いている。俺と出会った時からずっと。笑っているのに、静かに泣いている。星のさざめきのように。
夜空には俺には持てない色が滲んでいく。どこか遠いところ。あの日見たオーロラの中の色みたいに、俺を置いていってしまう。
また手を伸ばす。掴んだのは、ハルが落とした高瀬に向けた淋しさの一部だった。
苦しい。ハルの俺以外に向けられた感情を拾うのは虚しい。それでも。ハルの一部が俺に許されるなら、懸命に拾いたい。淋しさを誰かが拾うことで、ハルが少しでも救われるのならば、俺が掬いたい。笑わなくてもいいから。
拾った淋しささえも綺麗で、俺が抱きしめたら、きっと汚れてしまう。だから、抱きしめないから。触りもしないから。
貼り付けた笑顔を解いて、俺の前で泣いて欲しい。淋しさは俺が受けとめるから。
そしてどうか、泣きやめば振り返って、また笑ってくれないか。
俺は陽が沈み、東京の暗くよどんだ空に願った。思いを馳せるはずの星など、降って来なくとも。
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