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煌々と宣伝しているコンビニから、お目当ての肉まんとアイスを奢ってもらって出てくれば、遠くのビルの明かりが目立つ。夜の方が騒がしいこの街は皆、眠れないのだろう。
この道は入り込んでいて、東京から見放されたような草むらが茂っている。広いのに、あまり人が通らない。静かさは随一だ。
「なあ、どうして肉まん一個しか頼まなかったんだ」
カドはわからずやかもしれない。
「ふふ。それはね、カド。肉まんとは、こうして半分こして食べるものだからだよ」
僕はいたずらな笑みを浮かべて、肉まんを半分に割った。割れ目からほかほかと、ゆっくり半透明な湯気を立てる肉まん。初夏の夜よりも温かいよって、主張がすごい。
「わあ。ほかほかだ。はい。奢ってくれてありがとう」
僕は片割れをカドに掲げる。
どういたしまして、とカドは呟いて、不思議そうに肉まんを頬張る。
白い半袖のワイシャツから覗くたくましいその腕には、二人分のつめた〜いアイスが袋の中で、ガサゴソと音を立てている。
「本当だ。今まで食べたどの肉まんよりもうまいな」
カドは鋭利な眉毛を下げて笑っている。
もう少し人を疑った方がいいよ。
「でしょう。オススメの食べ方。また誰かとこうして食べなよ」
僕はまたもや適当を流した。そんな言い方をしたいわけじゃないのに。僕は肉まんと一緒に自分の戯言を口に入れる。飲み込むのに時間がかかる。
「いや。俺はハルとしかこうして食べない」
あたりまえだ、というようにカドは力強くうなずく。
わかった。僕が悪かったから。もういいよ。
「なんで」
精一杯虚勢を張って僕は言った。声が震えないように。
また、カドの目を見れなくなる。乾いた小さな音が、僕の瞼から溢れてしまう。
「俺がほかほかの肉まんを半分こしたいのは、ハルだけだから」
まっすぐ。ただまっすぐにカドは僕を見て言う。
僕は自分の吐いた戯言で、喉が絞まる。
「そもそも、俺と肉まんを食べてくれる人など他にいないけどな」
ビルの明かりに阻害されて、見えない星を探すようにカドは言う。
ああ。今だけは、せめて星が見えれば良かったのに。僕の弱さは隣人まで傷つけてしまう。
僕の肉まんは、どんどん湯気が出ていって温もりを失う。早く食べなくちゃ。だけど、到底飲み込めない。
じわり。
冷たいコンクリートに一滴の雫が落ちた。夏の夜は天候が変わりやすいから、通り雨でも降ってきたのだろうか。傘なんて持っていないや。
「どうしたんだ……」
カドは驚いたように僕の瞳を疑っている。
「え、」
自分の瞳に手を当てれば、僕はいつの間にか泣いていた。
「なんで」
今度は声までもが震えていた。
おさまれ。そう思うのに、僕の体は言うことを聞いてはくれない。僕の足元だけコンクリートの色が少しづつ濃くなっていく。
落ちた涙もやがて冷えきっていくのかな。嫌だな。
涙は僕の一部であったことを耐えきれなくなったみたいに、静かに溢れていく。
「許してくれ」
カドの真面目な声が上から降ってくる。
「やっぱり、許されなくてもいい」
続けて、独り言みたいに言い聞かせていた。
「ごめんな」
そう言って、カドは僕を前から抱きしめた。
急に転がされた自転車は、驚いてタイヤを回転させている。まるで運命をダイヤルするみたいに。
カドは一体、何に謝っているのだろう。全部、謝るのは僕の方だ。
「ごめん」
もう一度、駄目押しみたいにカドは謝る。腕の力が強くなる。僕の視界はカドの体が全てになった。夏の夜よりも暗い。僕の全てがカドに包まれていく。おかげで怖くないよ。温かくて、このまま溶け合ってしまいたい。
「うー……」
熱に溶かされて僕は小さく声を上げて泣いた。もう止まらなかった。
カドの片手が僕の髪の毛を優しく撫でた。
太陽の陽だまりになぞられたみたいだった。
「ハル。大丈夫だから」
車も人も通らない。遠くのビルの明かりと、等間隔に置かれた街灯だけが、僕らを照らしている。聞こえるのは僕の嗚咽と、カドの喉ぼとけが上下する音。タイヤの回転音はもう聞こえない。それから気まぐれに、どこかの車のクラクションが聞こえるだけだ。
みんな静かだから。うるさい僕の嗚咽を聞きつけて、きっと泣き腫らす顔を笑うんだ。
僕の涙が冷たさに目醒めて、ふたたび怖い。
「誰も見てない。俺もすぐに忘れるから。」
僕の気持ちはきっと涙を通して伝わっている。カドの肩に移った僕の一部。すっかり湿っている。
街灯に照らされてできた僕らの影。一つしかなかった。
カドは僕の泣き顔を庇うみたいに、頭をもたれている。こうしてくっついていると背の高さがよくわかって、僕は男だけれど、背中の大きさに安心してしまう。僕に受け取る資格なんてないのに。
守ることを恐れないカドの手。高鳴った心臓の音が聞こえてくる。
カドは突然泣いた僕を笑ったりしなかった。本当は、それだけでよかったはずなのに。
「大丈夫。こんな日もある」
カドはいつも以上に、僕を壊さないよう優しくする。僕が泣いているから。制服に染みをつくるくらい永い時間、泣いているから。
コンクリートだってもうすぐ、この一つの影を焼き付けてしまうだろう。
そうしたらすぐには消えなくなってしまう。
だからもう、笑わなくちゃ。僕に戻らなくちゃ。
「ごめんね。ありがとう」
僕は涙を滲ませたまま、やっと告げた。
「もう大丈夫だよ」
離してよ。この言葉すら言えないことを、もしも星が見ていたら責めただろう。どこまでもお前はずるいと。僕だけに聞こえるように詰っただろう。
「そうか。ごめんな」
カドはまた謝る。そして、名残惜しそうにゆっくりと、僕を離した。
横の道を、上機嫌な自転車が走ってきた。僕らの影が二つに戻った、おぼろげな証人。
僕の後ろ髪が微かに揺らぐ。僕に触ったのは夜風で、もうカドの手は触れてこない。
カドの手の方が優しかった。優しいから、もう僕に触れられない。
「ハルの家まで送っていく。もう、一人でも帰れるかもしれないけれど」
そう言ってカドは僕の自転車を起こし、背中を向けて歩き出す。
僕の影は、一人で焼きついて動けない。
カドは振り返らない。何も聞かない。
置いていかないで。僕を一人にしないで。場違いなわがままが、焼きついた影から迫り上がってくる。
「ほら。帰ろう」
カドは僕が焼き付けられた二つ先の街灯で影をつくり、僕を呼んだ。優しすぎるから見ないふりができない。そんなカドにずっと甘えてきたのに。
「先に行ってて。追いかけるよ」
僕はまた瞼を伏せて、カドに責任を押し付けてしまう。
カドは僕を振り返って大股で戻ってくる。
タイヤが足速に回転する。カドが進んだ時間を巻き戻させた。
「ほら」
カドは深く眉間に皺を寄せて、僕に左手を差し出した。
「ごめん」
僕は思わずその言葉を口から漏らす。
「いいから」
眉間の皺をおさめて、カドは僕を待っている。
僕は無言で右手を重ねた。
カドは、壊さないようにと優しく、その大きな掌いっぱいに僕の手を握った。
僕は、どんな力で握り返せばいいのかわからなくて、委ねてしまう。
カドはゆっくりと歩き出した。
僕は手を握ってもらったままでついて行く。まるで迷子の幼な子みたいに。
せめて笑わなくちゃ。僕はなんとか睫毛を伏せた。笑っているように見えたらいい。
「ずっと笑ってなくてもいい」
一本道をまっすぐ見つめながら、カドは言う。
「どんな顔でもハルは美人だ」
掌の体温ひとつ変えず、カドは僕に言った。
代わりに僕の手の体温が上がる。
「俺の前では無理せずにいて欲しい」
カドの言葉を最後に、僕たちにはもう言葉が無かった。
僕の家の前まで繋ぎ続けた掌と、すっかり溶けきったコンビニのアイスだけが、僕たちの歪な夜を覚えていた。
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