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友達の名前
「名前を書いてっていったのに…」
お母さんが赤いハンカチを見て今にも怒りそう。
「これ、ささかはなこちゃんのだもん」
プイっと横を向く私にお母さんは、
「誰?幼稚園のお友達の話?」
怒るのを止めて、不思議そうに聞いてくる。
「違う、はなこちゃんにあげるの」
私が抱っこ出来るお人形の襟に赤いハンカチを巻き付けると、
「ああ、この子が、ささかはなこちゃん?」
お母さんは私のはなこちゃんに触ろうとする。
「ダメ!はなこちゃんは私じゃないと泣いちゃう!」
はなこちゃんを一生懸命あやす。
「そっか、じゃあ理実ちゃんがはなこちゃんのママ?」
「そうだよ。理実は、はなこちゃんのママ。このハンカチあげて、名前を書いたの」
「わかった。じゃあ今度は理実ちゃんのハンカチだから、自分のお名前書いて」
もう一枚渡された赤いハンカチに、私は『ひやま りみ』と書いた。
「ねえ、お母さん。隣に、はなこちゃんの名前も書いていいよね?」
お母さんは少し困った顔してから、優しい笑顔になった。
「はなこちゃんがもう一枚はママの理実ちゃんにあげたいって。だから、はなこのお名前は要らないって言ってる」
「本当?」
「本当だよ。お名前が二つあったら誰のものかわからなくなるって、はなこちゃんが心配してるね」
「そうだね、一個は、はなこちゃんのでもう一個は私のハンカチにしよう」
私が小学生になったら、いつの間にか、ささかはなこちゃんは喋ってくれなくなった。
弟が生まれて、嬉しいときにはキャッキャ、怒ってるときにはギャーギャー泣くようになった。それでも私は喋ってくれなくなった、ささかはなこちゃんとお喋りごっこをしていた。
お母さんに呼ばれる。
「理実ちゃん、ちょっと手伝って」
「ダメ、はなこちゃんが抱っこって言ってる」
「抱っこしながらでいいから、秀哉と遊んであげて」
「しょうがないな。シューヤ、ほら、私のはなこちゃん、可愛いでしよ?」
シューヤのちっちゃな手と、はなこちゃんの手を繋がせようとしてみる。
シューヤは、はなこちゃんの手を振りほどいてしまう。頭に来たけど、私はお姉ちゃんだから我慢する。シューヤの前で、はなこちゃんを出したり隠したりすると、気を取られてるシューヤ。
お母さんがシューヤをあやすときに、いないいないばあをしているから真似してみた。はなこちゃんと違って、シューヤはまだ赤ちゃん。
「本当に手がかかるなぁ。はなこちゃんは、いつもお利口さんなのに。お母さんを困らせちゃダメだよ、シューヤ、わかった?」
シューヤは機嫌が良くなってきたのか、首をフリフリして頷いてるように見える。
「理実ちゃんは偉いね、はなこちゃんのママで、秀哉のお姉ちゃん。ママ助かってるよ」
お母さんに頭を撫でられても、素直に喜べない。パパまでシューヤにべったり。
いいもん、私ははなこちゃんのママだもん。寂しくなんかない。私はシューヤみたいな赤ちゃんじゃないし、私のはなこちゃんはシューヤと違ってお利口でかわいいもん。
「なあ、そろそろ潮時じゃないか?」
お化けが出そうな夜のトイレ。もう一人で大丈夫。リビングから聞こえるパパのシオドキってなんだろう?
「ええ。無理にママって呼ばせるつもりはないけど、他人行儀にお母さんって言われる上に、ささかはなこちゃんって、耳にこびりつくほど連呼されて気が狂いそう」
ささかはなこちゃんの話かな?
「なんで…生みの母親の名前と旧姓を知ってるんだろうな…笹川華子…一文字足りないが流石に気味が悪い」
キュウセイ?お星様かな?
「あなたのせいよ。華子さんが亡くなって一周忌が済んだからって、結婚して私に母親になれなんていうから。私のいない所で華子さんのことを教えたんでしょ!?どうせ!」
お母さんが怒ってる…どうして?
「教える訳ないだろ?理実のために記憶が薄いうちにと思ってたんだから!」
パパも怒ってる。
「もう正直に話すしかないでしょう。小学二年生にもなって、ずっとあの人形の世話をしてるのよ。私にだってああいう頃はあったけど、友達に遊びに誘われても、はなこちゃんのお世話があるからゴメンって理実は断って、まっすぐ家に帰ってくるし、誰とも遊ばない。どう考えても、私達のウソが、理実の正常な情緒の発達を妨げてるとしか思えない」
難しくて何を言ってるのかわからないけど、お母さんは泣いている。
「真弓…ごめんな…。いつか理実には話そうと思っていたけど、こんなに勘が鋭い子だとは思わなかった。話すしかないか…」
パパも泣いている。
「勘じゃないと思うわ。私も結婚してからつい旧姓でフルネームを言って、慌てて言い直す事がある。理実は華子さんの言い間違いを赤ちゃんの頃に聞いて、覚えた」
「理実が一歳半のときに華子は死んでるのに、旧姓と名前を覚えてると?」
「あの子は賢いのよ、憎らしいくらい。絶対に私をママと呼ばずに、か、かか、おかぁ、お母さんよ。貴方はパパって呼ばれるのに!ママ友に、理実ちゃんはしっかりしてて育てやすそうって言われる度に秘密を打ち明けたくなる」
「打ち明けたらダメなのか?」
「ママ友には信用出来ない人もいる。理実が無駄に傷つくような事はしたくない」
「そうだよな…。理実に華子の事を話してみるか…。真弓、すまない。仕事が忙しくて、つい任せ切りになってた…」
「私こそ、ごめんなさい…。理実と秀哉をちゃんと育てなきゃって肩に力ばっかり入って…」
私は、本当のお母さんがはなこちゃんと同じ名前らしいという事がなんとなくわかって、そーっと部屋に戻って、いつも隣に寝てる、はなこちゃんを力一杯抱きしめた。
「私がママじゃなくて、はなこちゃんがママだったんだ」
ずっと喋ってくれなかった、はなこちゃんが小さく口を開いた。
「私が理実ちゃんのママで、理実ちゃんも私のママだよ」
目がパチパチするお人形だけど、初めて口が動いた。さらさらの薄茶色の髪の毛を撫でて、もう一度はなこちゃんを抱きしめた。
「ママ…」
私は、はなこちゃんを抱きしめたままいつの間にか眠っていた。
次の日、パパとお母さんに、本当のママの写真や動画を見せてもらった。本当のママのお話も聞いた。でも、私の大好きなはなこちゃんと、本当のママの華子さんは全然違った。
私がずっとはなこちゃんと一緒にいると、パパとお母さんが心配する事だけはわかった。パパとお母さんを心配させないように、寝るときだけ、はなこちゃんとお話する事にした。
学校の友達と遊んだ話、喧嘩した話、お母さんに言ったら叱られるような悪戯の話。毎晩はなこちゃんを抱っこして話かけていた。
小学校五年生のときに、サッカーの学童チームに誘われてからは、はなこちゃんに話している暇が無くなった。はなこちゃんはベッドから机の棚の上に移動して、練習試合や試合のときに、行ってくるねと心の中で、声をかけるだけになった。
弟の秀哉も幼稚園年長になって、一丁前にサッカーの真似事をするようになった。
はなこちゃんははなこちゃんで、本当のママは本当のママで、お母さんはお母さんのままだけれど。
試合の車出しで迎えに来てくれたお母さん。
泥だらけの、試合の興奮が残っている、うるさい男子を送り届けた後、お母さんと車の中で二人になった。
「女の子が三人だけで大丈夫?」
「うん…なんとかやってる」
「そっか、理実は頑張り屋だね」
お母さんは、もう理実ちゃんじゃなく、理実って呼んでくれるようになった。信号待ちのときに、私はお母さんに勇気を出して言ってみた。
「二人のときは…ママって呼んでもいい?」
「無理しなくていいんだよ、気を遣ってない?」
「パパと三人でいるときにママって呼んだら、華子さんがヤキモチ焼くかもしれないから、二人のときがいい。そういう意味では気を遣ってるかな…」
「理実…好きな人いる?もしかして?」
「い、いないよ…なんで?」
「あっ、今、慌てた。急にヤキモチなんて言葉が出てくる辺り怪しい」
「違うってば、ママ。止めてよ恥ずかしい」
信号が青になったのに、お母さん、いや、ママはハンドルに突っ伏してしまった。後ろの車から、激しいクラクションを鳴らされる。
「あ、いかなきゃね」
ハンドルを握って、真っ直ぐ前を見据えたママの瞳から、大粒の涙が溢れていた。
それから、人形のはなこちゃんは、ずっと机の棚の上が定位置だった。両親に遠慮して見えない所に仕舞うのは違う気がしたから。私が上京して大学にいくときも、はなこちゃんを連れて行った。
辛い事も嬉しい事も、なんでも、心の中でついはなこちゃんに話しかけてしまう。本当のママの名前と一文字違いの、ささかはなこちゃん。
「行ってくるね」
今日も心の中で呼び掛けてアパートを出る。川辺には秋桜が揺れている。本当のママの写真にも秋桜が写っていたっけ。帰りに薄いピンクの秋桜を一輪詰んでお人形のはなこちゃんにあげよう。
本当のママ、笹川華子さんは薄いピンクの秋桜を手に取って愛でていた。その横顔の写真は胸に焼き付いてる。私も顔が少し似てきたかな?って聞いてみよう。
いつかの夜みたく、はなこちゃんが代わりに答えてくれるかもしれないから。
(終)
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