雪は踊っている

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雪は踊っている

 底冷えのする一月。窓の向こうには重苦しい灰色をした空が広がっていた。俺たちはいつものように文芸サークルの部室にいた。幽霊メンバーばかりで活動らしい活動もしていない。学生はおろか、大学にすらその存在を忘れられたようなサークルだった。  俺と彼は部室の常連だ。真面目にサークル活動をしていたわけではない。部屋は校舎の端にある。人もまばらで静かで、くつろぐにはもってこいの場所だったのだ。  彼はそのとき、ピアノを弾いていた。一体いつからそこにあるのか誰も知らない。部屋の隅に打ち捨てられた古いアップライト。今は彼に手入れされ、止まっていた時間を取り戻している。 「なんていう曲だ」 「ドビュッシーの『雪は踊っている』」  音は死んだ様な空気の中を、絶え間なく舞っていた。旋律は流れるように進み、転がり、地に落ち、溶けていく。なるほど、雪そのものを描いたような曲だ。俺は思いついた言葉をノートに書き留めながら、ドビュッシーに耳を傾けた。 「うまいもんだ」 「親戚が調律師をやっていてね。ピアノを始めたのもその影響」 「ふうん」 「ぼくも好きだよ。きみが綴る言葉の羅列」 「そうか」 「新しい詩は書けた? 読ませてよ」  なんだかくすぐったくなる。俺は目線を外し、窓の外を眺めて気を反らした。  すると、扉が乱暴に開け放たれた。同じ学部の連中が床を鳴らしながらやってくる。俺を探していたらしい。 「いたいた。こんなところで、なにやってんの」 「今度のさあ、合コンの話なんだけど」 「わあ、ピアノがあるう」  香水と化粧の匂いをまとった女たち。派手な色の髪をした男たち。彼らはピアノを囲むと、なにか弾いてほしいとせがんだ。だが、彼は口を利こうとすらしなかった。 「そういえばどうだった。おまえ、このあいだ詩のコンクールに出したって言ってたよな」  そのうちの一人が言い出した。半年前に応募した新人賞だ。五〇年以上の歴史がある若手詩人の登竜門。俺は高校生の頃から応募している。歴代の先達たちも受賞している名のある賞だ。俺の憧れであり、目標でもある。俺は詩人になりたかった。 「落ちた。落選だよ」 「あらら、残念」  やっと振り切れそうだった落胆が蘇る。二一歳の冬。毎日を手折れそうな自信の中でもがいていた。こんな時代に詩人など、必要とされているのか。小さいときから国語は得意だった。でも、その程度のことなのではないか。自分はなにか途方もない勘違いをしているのではないか。  壮大な夢ばかり描いて、現実ではなにも結果を出せない。焦燥は夜ごとに胸を焦がし、まんじりと眠れない日々が続く。すると、ひとりの女が口を開いた。 「へえ、詩なんて書いてんの」真っ黒に(ふち)どられた目がこちらを覗く。「でも、そういうのって面白いの。何十とか何百とか送られてくるんでしょ。受かる確率の方が低いじゃん」  俺は女がなにを言っているのか理解できなかった。女の台詞が頭の中を駆けめぐる。 「ていうか、今どき詩人って。なんか意味あんの? 儲かるの?」  室内に大きな音が響いた。彼が女を叩いていたのだ。みんな呆然として声も出なかった。女の悲鳴が上がると、全員が我に返り、辺りは大混乱となった。数人がかりで彼と女を引き離す。部屋はこんなに寒いのに、嫌な汗が止まらなかった。女の仲間が彼を睨む。 「なにすんだよ、テメエ。なんとか言えよ、コラ」  どれだけ睨まれても、彼は口を開かなかった。沈黙を貫くことが反撃だとでもいうように。 「おまえ、知ってるぞ。有名人だよな」  下卑た視線が彼を打つ。興奮冷めやらぬ室内で、その言葉はどんな暴力よりも乱暴だった。 「哲学部にいるジイサン教授とデキてるって噂は本当か、ホモ野郎」  一斉に笑いが起きた。彼は部屋を飛び出していた。  ◇◇◇  翌日、雪が降った。夜に降り始めたそれは明け方まで降り続け、街を白く染めた。俺は大学に辿りつくまで何度も転びそうになった。 「おはよう」 「おう」  枝に白い傘を被った樹々のあいだから、彼はひょっこりと顔をのぞかせた。 俺は少し気まずかったが、努めていつも通りに振舞った。しかしなにを話せばいいのだろう。気にするまいと思えば思うほど、口がもつれた。その上、この足元だ。転ばないよう踏ん張ることに忙しく、気を遣う余裕がない。  彼はなんでもないと言った風に歩いていた。晴れた日の道路を歩くのと変わらない。俺とは大違いである。 「よく歩けるなあ」 「なにが」 「こんな雪の上をさ、よく転ばないで歩ける」 「まあ、ぼくは東北の出身だからね」  雪には慣れているんだ。彼は小さく肩をすくめた。そんな話ははじめて聞いた。 「どこ。なに県」 「ド田舎だから言わない」 「訛りもないな」 「練習したから」  しばらくは二人とも無言で歩いた。足元と沈黙が重い。 「なあ、昨日のことだけれど――」 「昨日はごめん」  彼の方から頭を下げてきた。俺は慌てて首を振る。 「いや、そんな、俺の方こそ」 「黙っていられなくて。あのバカ女」 「いいんだ。俺は嬉しかった」 「でも、友達なんだろ」 「顔見知り程度だよ。ゼミが一緒なだけ。合コンも乗り気じゃなかった」 「そっか」  それからまた黙って歩いた。時折、陽光に溶けた雪の落ちる音がした。ザラメを流すような音だなと思った。  半歩先を行く彼の靴が濡れて光っている。彼は本当にきれいに歩く。靴にほとんど泥がついていない。俺の足元はべっとりと黒ずんでいるというのに。 「ぼくさあ、大学辞めるんだ」 「うそ、なんで」  唐突な告白に、俺は足を取られそうになる。昨日のことで問題が起きたのかと尋ねたら、彼はちがうと言った。 「海外に行く。音楽を勉強したくて」 「なんだよ、それ」 「言ってなかったっけ。高校は音楽高校だったんだ」 「知らなかった」 「ぼく、将来は音楽でやっていきたいんだよね。でも、勉強する内に、いろいろとわからなくなっちゃって。特に人間とか人生とか、生活とかさ。それで哲学を勉強すれば、もっと人間のことがわかるかなあって思ったんだ」  呆れたやつだ。俺はため息が出た。人間観察なんて、普通に生活していればわかることだろうが。そう言ってやったら、彼は空を仰ぎながら、「それもそうか」などと間抜けなことをつぶやいた。 「あてはあるのかよ」 「フランスに、おじさんがいる」 「フランス」 「ええと、このおじさんっていうのは変な意味じゃなくて、母方のお兄さんのことだからね。このあいだ話しただろ。調律師やってるっていう」 「そんなのはどうでもいいんだよ」  合コンだ、バイトだと毎日を適当に生きているだけの連中。やる気のない文芸サークル。かすりもしない新人賞。涼しい顔をしてドビュッシーを弾くくせに、部室を訪ねると、いつも窓が曇るほどピアノに向かっていた。俺に気がつくと、手を止めて笑顔で応える。背後にある窓から水滴が伝う。  もっと話をしておけばよかった。だが、なにを話すんだと言われてもなにも思い浮かばない。きっと彼もそうだろう。だから大学を辞めることも言わなかったのだ。  こんなことになっても、俺たちはお互いへの興味が欠落していた。俺の中にほんの少しの後悔と、奇妙な安心感が訪れる。  変わらないことが哀しく、変わらないことに安心した。  ふたたび雪が落ちた。ざらざらと音を立てている。関東生まれの俺には馴染まない音だ。音だけではない。この寒さも、滑る地面も。居心地が悪くて仕方なかった。ひとつの汚れも許さない白一色の世界が、俺をざわめかせる。 「勝手なやつめ」 「ごめん」 「相談くらいしてくれたっていい」 「ごめん」 「友達だろ」  彼は足を止め、大きく目を見開いた。半開きの口元で白い息が翻る。 「そうだね」  彼は柔らかく微笑んだ。俺たちは再び歩き出し、校舎を目指した。 「向こうへ行っても、きみへ連絡してもいいかな」 「好きにしろ。いちいち断らなくていい」 「ありがとう」 「ああ」  彼と教授の関係は気にならなかった。噂は出会う前から知っていた。しかし知り合ってからも、俺たちがその話題に触れることはなかった。  俺は詩作に耽ることだけが唯一の関心であったし、彼はピアノを弾き、楽譜を捲ることだけに集中していた。俺たちはお互いにお互いへの興味が欠落していた。彼との時間は気楽だった。 「がんばれよ」 「きみも」  一カ月後、彼は旅立っていった。ピアノは、また誰にも弾かれなくなってしまった。  鍵盤を叩いてみる。透明な音が鳴り、過ぎ去った日々を懐かしくさせた。  窓の外では雪が降り始めていた。  宙を舞い踊る白いそれは、まるで彼の旋律だ。  俺はノートを広げ、ペンを取る。  それから、かつて隣にいた彼を想った。  異国の空にも雪は踊っているのだろうか。 〈終〉
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