霜の置くまで

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霜の置くまで

 そういえばわたしは、一生分の涙を使い切ってしまっていたのだ。泣くべきときに泣けないというのは、それはそれで惨めなものだ。  夏の幕開けと共に、ひとつの恋が終わった。今となっては、それが恋と呼べるものだったのかもわからない。わたしは本当の愛というものを辛うじて覚えていたけれど、彼に抱く感情はそれとは到底かけ離れたものだった。  約三年間付き合った年下の彼は、「真由(まゆ)さんとおれは、同じ世界をみることができないんだ」と言った。 「いつも一生懸命な真由さんを支えてあげたいと思うけれど、どうしたらいいかわからない。おれたち二人は、思い出話をする事すらままならないだろう? この先、共に生きていくことを考えると、そんなの寂しすぎるよ」  手痛い言葉だった。あたかも自分の半生を根底から否定された気持ちになった。  しかし、自分が泣けないと解ったわたしが、恋の終わりの余韻に身を委ねることはなかった。ただ、少し疲れたなと感じた。  この夏、わたしは長めの休暇をとった。生まれ育った町を出て、十年の月日が経っていた。気づけば三十路も半ばを通り過ぎていた。  この十年間、がむしゃらに生きてきた。仕事をして、恋をして、旅をして、一抹の悲劇も匂わせないありふれた人生を演じてきたつもりだ。そんな道化じみた毎日に、区切りをつけたかったのかもしれない。  休暇の初日。帰郷のため実家へと立つ前に、薄暗い部屋の片隅に立て掛けた、かつて愛したあの人の写真を、ほとんど習慣のように一瞥した。こんなわたしでも、忘れてもいいことと忘れてはいけないことの分別はついているつもりだ。  その簡素な仏壇は、今やわたしの記憶維持装置だった。わたしは時折、その遺影に語りかけている。いったいいつまで、あなたのことを忘れずにいられるだろう。
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