霜の置くまで

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 茫漠とした喪失感を道連れに、わたしは実家へと帰り着いた。  立っていることすら億劫に感じて、力なく濡れ縁に腰掛けた。そのまま放心したように夏めいた庭の草木をぼうと眺める。  しばらくすると夕立が降って、すぐに止んだ。雲の切れ間から覗いた鮮烈な光に目眩を覚える。地面から立ち昇る湿っぽい匂い、ずぶ濡れになった洗濯物、規則的に回る扇風機の音。自分を取り巻く数々の事象が嘘っぽいものに感じる。庭の隅に植えられた百日紅(さるすべり)の赤だけが、何故かやたらと現実味を帯びていた。  ふと、玄関の方に見える人影に気づいた。おばあちゃんだ。藍色の日傘を開きながら、ゆったりとした足取りで玄関先へ向かっていく。もうそんな時間か。今日も死んだおじいちゃんのお迎えにでているのだ。  なぜ今もなお、その習慣に拘泥するのだろうか。その答えが無性に知りたかった。ほとんど縋るような思いで、わたしはおばあちゃんの元に向かった。 「おばあちゃん、わたしもご一緒していいかな?」   わたしがいうと、おばあちゃんはなにも言わず微笑み返した。  わたしたちは二人、おじいちゃんを待つ。どこからか蝉の鳴き声が聞こえてくる。こうして立ってみると、ここから見える町並みだけは、何年も前と変わらずに廻り続けている事がわかる。  だけど、おじいちゃんは帰ってこない。永遠にだ。この時間に、いったいなんの意味があるのだろう。 「ねえ、おばあちゃん」  わたしは言った。 「なんですか?」 「おじいちゃん、もう死んだんだよ」 「ええ」 「もう、帰ってこないんだよ」 「ええ、そうですね」 「じゃあ、いったい誰のお迎えをしてるの?」 「わたしが帰りを待つ人は、今も昔もひとりしかいませんよ」  やっぱりそうだ。おばあちゃんは、呆けてなんかいない。ふざけているわけでもない。全部わかっていて、それでもおじいちゃんを待っているんだ。 「……わたしも、待っていればよかったのかな」  ほとんど独り言のように言って、わたしは俯く。 「ただ、生きて行かなくちゃって思ったの。あんな絶望を繰り返し思い出したら、自分を壊してしまう気がして――」  そう、一生分の涙が尽きるほど泣いたあと、わたしは過去を封印した。だけど、結局は思い出そうとしてしまった。割り切ることなんて、はじめからできなかったのだ。 「今日、あの人の顔が思い出せなかった。いつも隣にいたのに。とても愛していたはずなのに……」 「わたしもですよ。ふとしたときに、何十年も一緒に暮らしたおじいさんの顔を思い出せなくなることもあるんです」  おばあちゃんが頷く。 「だからわたしは、ここに立つのです。待っている間は、その人のことだけを考えるもの。誰かをお迎えするって、そういうことですから」  たとえそれが帰らぬ人だとしても――と、おばあちゃんは言葉を結んだ。  わたしは顔を上げた。そうか。嘘でもいい。思い込みでもいいんだ。わたしもずっと前から、そうすればよかったのだ。  記憶を覗くレンズを絞る。あの人がもうすぐ、ここへ帰ってくる。きっとあの角を曲がって、いつもどおりの優しげな眼差しでわたしを見つけるはずだ。早く顔を見たい。声を聞きたい。手のひらに触れたい。  過ぎ去った時間が光となって視界に躍り、記憶の焦点が合う。気がつくと、わたしの目の前にあの人が立っていた。昔と同じ笑顔のままに。  ごめんね、と彼は言う。  ずいぶん心配かけたと思うけれど、やっと帰ってこられたよ。  いいの、とわたしはこたえる。  必死に涙をこらえながら、あなたのことを考えていたの、と言う。あなたがいつか帰るこの場所に、わたしはずっといたんだよ、と。 「……おばあちゃん」 「なんですか?」 「あの人がもし帰って来たとして、出迎えたわたしが泣いていたらどうするかな?」 「どうでしょうね……おじいさんなら『泣くな』と、にべもなく言い放つかもしれないですが」  おばあちゃんが微笑む。 「(のぞむ)さんは……真由の旦那様は、とても優しい人でしたから。なにも言わず抱きしめてくれるのではないでしょうか」  ――ああ、そうだ。  望くん。わたしの旦那さん。わたしの最愛の人。  心の容積が、あたたかいもので満たされる。望くんがくれた優しい言葉の数々が、たおやかに蘇っていく。  もう枯れ果てていたはずの涙が、とめどなく溢れ出る。思い出すことが辛いことだなんて、どうして決めつけていたんだろう。 「またひとつ、夏が過ぎていきますね」  日傘を畳みながら、おばあちゃんは言った。  わたしは涙を拭いながら無言でうなずく。日が暮れていく。変わらない町を染める茜色の残光に、わたしは目を細める。  あれから十度目の夏。ずっと止まっていた胸の振り子が、再びゆっくりと動き出した気がした。
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