親愛なる理想的なきみへ

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 むしゃくしゃしたので壁紙を塗ることにした。丁度、ツイッターで、紫の壁に塗った和室を紹介していて、畳と床の間と、濃い藤色の壁が、淡い障子張りの室内灯の明かりに包まれてなんとも艶めかしい。谷崎潤一郎の小説に出てくる女性のような妖しい色気に憧れて、ここはひとつあやかって濃い紫にすることにした。  とはいっても、自分の部屋は産まれたときからのつきあいのこども部屋で、色あせた学習机、コミックの並んだ本棚など、色気はほど遠いのだが、僕は自分の思いつきに行動する前からすっかり満足し、紫に溶け込む色白のしなしなした柔らかな腰を持つ女性になった気でいた。それで、妄想をより現実に近づけようと、一目散にホームセンターへ行き、マスク越しにもごもごと用件を店員に伝え、棚にあるだけの紫のペンキとスポンジローラー、バケットを買って、意気揚々と夏の坂道を自転車で走った。アスファルトの熱で揺らぐ歩道は、勢いばかりの雑草に縁取られ、時折僕の脛を打つ。汗だくになりながら自宅へ舞い戻り、道具を運び込んでから、台所でまず氷をたくさん入れた麦茶を一杯。それから部屋のエアコンを最強にして、家具を壁から離し始めた。ペンキがつかないように、部屋の中央へ寄せ集める。ベッドと机、何を入れたか忘れた大きな箱、昔は僕よりおおきかったくまのぬいぐるみ、タンス。本棚の本を抜き出して、勉強机に運んだ。本棚は背板の無いタイプのもので、抜き出すと向こうに壁紙が見える。二段目の児童書に取りかかり、あらかた空にしたところで、ふっと奥にいる誰かと目が合い、ぎょっとした。  蒼い眼の小さな男の子。  と思いきや、よくよく確認するとこちらを見ているのは壁に描かれた落書きだった。こんなところに落書きをした覚えなんて無いのだけれど、と床に本を積み上げながら記憶の中を探ってみる。成長途中で家具を増やすあいだに、幼い落書きを隠そうと本棚の背にしたのだろうか。それは、掌ほどのまるい頭に、まるをくみあわせた目を二つ持って、三日月のような線の口をしている。髪は二本、左右に肩あたりまで垂れている。鼻はない。本棚の一番下を空にすると、細長い胴体と、底から生えるまっすぐの手足が現れた。気の毒に、裸だ。青のクレヨンで描かれた彼は、おそらくは幼稚園の頃の悪戯の産物だろう。横格子の木の檻の中で、健気に微笑んでいる。久しぶりに会ったけど、何のエピソードも思い出せない友達にするみたいに、片手をあげて、 「よう」と挨拶をした。 「よう」と彼(彼だろうか、おそらく)も同じように挨拶を返す。 「久しぶり、忘れるなんて非道いじゃないか」  彼は線の口をもごもごと動かして、僕の情の無さを責めた。落書きに話しかけられて、暑さで頭がやられたのかとしばし呆然としたが、そういえば幼い頃は、そこにいるくまもぼくとおしゃべりしてくれていたのだった。 「えーっと、あきらくんだっけ」  僕はかつてこの部屋に唯一来たことのある友達の名を呼んでみた。 「違うよ」  笑ったまま怒っているので怖い。 「あきらだよ」 「あきらなんじゃないか」  僕は不満げに、口を歪めた。そうだった、彼は怒りっぽい。 「おれ以外友達のいない、暗ーい幼少期を過ごしたくせに、薄情だな」 「そうだっけ」 「そうだよ。おれがいないと、遠足のグループにも馴染めなかっただろ」 「そうだっけ」 「会わないうちに可愛くなくなったな。すぐ泣いてたくせに」 「そうだっけ」  今も友達は少ないけれど、とっくに開き直っている。 「ともかくここから出してくれ」とあきらくんは格子の中から訴える。どのみち壁を全部露わにしたいから、言われたとおりに軽くなった本棚を動かした。ところどころかぴかぴに乾いて色あせたあきらくんは、狭い場所から解放されてふうとのびをした。つたないクレヨンの落書きは、はて、自分がやったのだろうか。いいや、僕は臆病だったはず。お母さんに怒られそうなことを試すはずがない。 「お前、いくつになった?」  あきらくんはにやにやして尋ねた。 「おれよりずいぶん大きくなったな」 「十七歳だよ。来年は受験」 「学生服、見せろよ」 「今更?着古してるよ、新入生でもない」  これからペンキを塗るんだから、汚れて困る格好はしたくない。壁でぶつぶつ言っているあきらくんをそのままに、床へシートをひいて、養生テープで留めていった。 「かわいくねえな、昔は何かあるとメソメソ泣いておれに話しかけていたくせに」 「そうだっけ」 「慰めてやっただろ」 「そうだっけ」  バケットに紫のペンキをなみなみと注ぎ、買ってきた缶を全部からにする。どっぷりとローラーを漬け込んでスポンジにインクを染みこませて、まずはべとりと一捌け。 「紫かよ」 「いいでしょう」 「妖しい」 「へえ、そういうの、わかるの」 「クレヨンだからな」  自分が落書きである自覚はあるらしかった。  脚立に乗って天井付近まで、白い壁をずぶずぶとたっぷりのインクで塗り込めていくうちに、あのクレヨンのあきらくんは、やっぱりぼくが描いたのではないと思った。家具を中心にあつめて広々とした僕の部屋。まだ積み木や絵本やミニカーに溢れていたころの僕の部屋は、背の高い家具はなかった。 「きみって、ぼくが描いたんじゃないでしょう」 「おれを誰が描いたかって? おいおいそれも忘れたのか」 「うすうす思い出してる」 「あきらくんだ」 「そう、あきらくんだ」  足が速くて喧嘩が強くて、そのくせ母親の趣味で髪を肩まで伸ばしていたから、女の子みたいにかわいかったあきらくん。クレヨンのあきらくんと同じくらいの髪の長さだ。 「あきらくんが描いたなら、髪をその長さで描かないと思うんだけどね」  あきらくんは女の子に間違えられると、レンジャーキックをおみまいしていた。役はもちろんいつもレッド。誰がやりたがっても力尽くでレッドを勝ち取る。ぼくはおこぼれでピンクがもらえた。女の子がやっていたピンクは誰もやりたがらなかった。レッドの次はブラックをやりたがり、その次はブルーで、グリーンでイエロー、ぼくはいつもあきらくんの指名でピンク。ピンクが好きだったから、実は嬉しかった。 「ピンクを助けに来るレッド」 「懐かしい」 「あきらくんが描いたならどうしてきみはブルーなんだろうね」 「青いクレヨンしかまともな長さがなかったからだろ」 「ああ、それで。ぼくが赤色を使い切ったのか」 「髪を描き足したのはお前だぞ。あきらくんは坊主で描いた」 「そうだっけ」  エアコンを強めていても、重労働で汗が流れる。ローラーを持つてのひらもじっとりと汗ばんでいて、冷たい風があたるとひやりとした。 「あんまり過去に興味がないんだよね」  それでも話しかけられるのが嬉しかったので、あきらくんのいる壁は最期にまわす。先に窓のある複雑なところを片付けていく。三滴ほど桟に垂らしてしまったが、まあいい。 「ふてぶてしくなったなあ」 「うん、なんていうかね。時間がもったいなくて」 「時間?」 「悩んでいるのに飽きてしまって」 「飽きた?」 「開き直ったら、誰も話しかけてこなくなって、っていうかいじめにあわなくなった」 「いじめられてたんかい」 「女々しいからね」 「確かに」 「たおやかとか言って欲しいね」 「ふてぶてしい」  あきらくんはからからと笑った。あきらくんは乱暴だけど、フェアなひとだった。気に入らないやつとはタイマンをはる。よってたかって一人を潰したりしない。あきらくんはぼくをいじめるやつの脛を蹴った。でも別にぼくにやさしくしてくれたわけじゃない、おのれのポリシーに従っただけのことだ。なにせいいやつではない、ぼくの部屋へ遊びに来て、やりたいからと落書きをするようなやつなのだ。 「そういうとこ好きだったなあ」 「そのわりには薄情だな。おれの存在まで忘れて」 「過去に興味はないんだよ」  過去は面倒くさかった。脚を引っ張られる。そこにやりたいことなんかない。今、ぼくは壁にペンキを塗っている。これが終わって過去になったら、別のことをやる。何をやっても後悔するなら、なんでもやればいい。結果は同じなのだから。 「ぼく、ふられたんだ」 「おれにか?」 「あきらくんは中学の時引っ越したんだよ。淡い初恋だったけど、何にも伝えなかった」  あきらくんは、そうか、と呟いたきり、何にも話さなくなった。しばらく待ってから、青いクレヨンをペンキで塗りつぶした。ひとを壁に埋めている気分になって、罪悪感が芽生えたけれど、すっかり理想的になった部屋をぐるりと眺めると、ただの感傷に変わった。  さて、次はどうしようか。髪を伸ばそうか。
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