6.ヘッドハンティング

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6.ヘッドハンティング

「ねぇ、武史」  部屋に備えつけのジェットバスに二人で浸かっていると、不意に理仁がまじめな顔をして言った。 「よかったら、うちの会社で働かない?」  唐突な誘いだった。武史は言葉に詰まる。 「きみの今の年収を上回る報酬を保証するよ。一般企業で言うところの、専務とか、常務とか、そんな感じの幹部クラスとして歓迎する」 「そんな、いきなり……」  問題ないよ、と理仁は平然と言ってのける。 「ちょうど、会社設立当初のスタッフが一人抜けてね。そろそろその穴を埋めたいと思っていたところなんだ。差し支えなければ、現職を訊いても?」  理仁の話は転がるように前に進んだ。武史は少し迷い、「人材派遣会社に近い業種かな」と答えた。 「担当している人材の売り込み、スケジュール管理、送迎、その他の身の回りの世話。そんなことをする仕事だ。決まった休みはない。実働時間の上限もない」 「上限って……じゃあ、丸一日働くことも?」 「時と場合によっては」  都外のロケ地と陽多の自宅を往復する場合などは、早朝から深夜まで家を空けることになる。着替えのためだけに家に帰り、睡眠もとらないまま翌朝また陽多を迎えに、なんてことはざらだ。 「激務じゃないか」  理仁は(うれ)えた目をして武史を見る。 「だったらなおさら、うちに来たほうがいい。うちは基本的に週休二日が確保されるし、朝が早いことはあっても、深夜に働くことは絶対にないから」 「恵まれているんだな」  純粋な本心がこぼれ落ちた。ワークライフバランスとは無縁の武史にとって、週休二日なんていう響きは幻聴にしか思えない。 「いや、社長のきみがそういう職場を作っているのか。立派だよ」 「他人事(ひとごと)みたいに言うなよ」  理仁は湯をかき分けるようにして進み、武史のすぐ目の前に移動した。 「現職が人材を扱う仕事なら、きみはまさにうちの会社向きの人だよ。ぼくの会社がやっているのも、日々いろんな才能と出会う仕事だ。その才能と向き合って、一番いい生かし方を見つける。クリエイターの人生を支え、小売店の利益につなげ、その先にいる消費者の生活や心を豊かにする。どう? きみの今やっている仕事と近いものがあるんじゃない?」  言われれば確かに、それほど遠くはないように思う。所属タレントの人生を支え、起用してくれる企業、あるいは個人の利益に寄与する。それが芸能事務所の(にな)う役割だ。 「それに」  理仁の顔が、すぅっと近づく。 「さっき、ぼくだけを見てほしいって言ったの、嘘じゃないから」 「え?」  理仁が動く。唇が重なる。湯船の中で、濡れた素肌が密着した。  熱に浮かされたような、けれどしっかりと前を見据えた目をして、理仁は武史の前髪をかき上げた。 「いつまでも過去の恋愛を引きずってちゃダメだよ、武史。その人と一緒に仕事をしていたら、きみはこの先もずっと前に進めないままじゃないか」 「理仁……」 「どうせ叶わない恋なんでしょう? この際きれいさっぱり忘れて、ぼくのところへ来なよ」  理仁はそっと、武史の手を握った。 「ぼくはもう、きみのことが好き」  ド直球な告白だった。人が人を好きになるのに理由はいらないと言った彼らしい潔さだった。  素直に嬉しいと思えた。見向きもされない恋心に苦しむより、目の前に好きだと言ってくれる人がいることの幸せをかみしめていたほうがずっと健全だ。  理仁は言った。陽多への恋心を引きずるなと。  そのとおりだ。忘れなくちゃいけない。光が現れても現れなくても、どっちにしたって叶わぬ恋だったのだ。  ただ、転職となるとすぐに答えの出せる話ではなかった。大学を出てから十四年、武史は芸能界での仕事しか経験がない。転職したいと思ったのはもうずいぶん昔の話で、今はからだが言うことをきかなくなるまでこのまま勤め上げるつもりでいる。 「ありがとう」  曖昧な返答になってしまうことを心の中で詫びながら、武史は理仁の手を握り返した。 「きみの気持ちは嬉しい。だが、少し考えさせてくれ」 「それは、うちの会社で働くことについて? それとも、ぼくの気持ちにどうこたえるかっていう話?」 「どっちもだ。この場で即答はできない」  自分でも珍しい答え方をしたと思った。いつもなら、「オレは恋人を作らない」と言っておしまいのはずなのに。  武史はこれまで、意図して特定のパートナーを作ってこなかった。仕事を最優先に生きているから、恋人を作ると時にその存在が邪魔になることがあるだろうと思ったからだ。  なのにどうして、理仁にはそう言えなかったんだろう。  少し考えて、恐れているのだということに気づいた。今まさにつながれている理仁の手を離してしまうことを、ひどく恐れている自分がいる。  いなくならないでほしい。  このままずっと一緒にいたい。  だけど――。 「ごめん」  無意識のうちに、武史は謝っていた。 「オレ、どうして……」  考えれば考えるほど、理仁の優しさに甘えたくなった。せっかく前に進む機会を与えてもらったのだ。これに乗れば、心はきっと軽くなる。  わかっているのに、からだがうまく動かない。思ったように言葉が出てこない。  迷っている自分に腹が立った。理仁を傷つけたくなかった。傷つくのは、自分一人で十分だ。 「焦らなくていいよ」  それでも理仁は、やっぱり優しい言葉をかけてくれる。 「返事、待ってるから」  愛らしい微笑みを湛え、頬にキスをしてくれた。風呂から上がる理仁の背中を、武史は無言で見送る。  追いかけようと立ち上がったけれど、足がうまく踏み出せなかった。  気のせいだろうか。  最後に見せた理仁の笑みが、どこか悲しげな色を帯びていたように感じたのは。
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