1.失恋

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 無言で走らせている車の中で、ルームミラーに映る陽多の顔を覗き見る。  熱心に台本をチェックしていた。現在陽多は映画の撮影の真っ最中だ。  撮影の始まった一か月前と比べると、朝の冷え込みはいっそう厳しくなっていた。十月の末。陽多の自宅に立ち寄る前にコンビニで買っておいたホットコーヒーに、陽多は口をつけてくれた。  つい、頬が緩みそうになる。陽多のために尽くすことそれ自体が、いつの間にか武史の心を満たす無意識の行動になっていた。  それが今では、ただひたすらにむなしいだけだ。陽多の気を引こうとしているわけでは決してないのに、光のことばかりを考えている陽多に振り向いてもらうためにがんばっているようにしか思えなかった。 「青だよ、五十(いそ)()さん」  後部座席から、陽多に声をかけられた。赤信号で停まっていたはずが、知らないうちに信号が青に変わっていた。  すまん、と小さく言ってアクセルを踏む。今日は都内の撮影スタジオに一日缶詰めの予定だった。 「大丈夫?」  陽多が助手席のヘッドレストに腕を回し、武史の横顔を覗き込んだ。 「疲れてます?」 「いや」 「でも珍しいですよ、五十田さんがぼーっとするなんて」  誰のせいだ、とはもちろん言えない。陽多のせいにするつもりもない。 「オレの心配は必要ない」  毅然とした態度で武史は言った。 「いつもそう言っているはずだ。おまえはおまえの仕事のことだけを考えていればいい。オレの面倒はオレが見る」 「じゃあ、これは僕からのお願いだって言ったら?」  ちらりとだけ、陽多の顔を覗き見る。宇宙の神秘を映したような、どこまでも美しい漆黒の瞳に射抜かれる。 「たまには休んでよ、五十田さん。僕のことなら大丈夫。撮影が終わったら、タクシーで帰るから」  陽多は真剣な顔をしていた。お願いをされて、ノーと言えないのがマネージャーのつらいところだ。  武史たち芸能事務所の社員にとって、タレントは神様だ。会社の実入りは、陽多たちタレントの働きにかかっている。  ダメだとわかっていても、ついため息をついてしまう。  陽多が映画の現場に呼ばれた十月初頭から、確かに武史は一日もちゃんとした休みを取っていない。それは陽多も同じで、陽多の撮影に付き合うから、自然と休みがなくなるのだ。  別にそれを苦だと思ったことは一度もないし、からだもそれほど疲れてはいない。  ただ、精神的にしんどいだけだ。  誰よりも大切に思ってきた陽多に、自分以外の想い人ができてしまったから。 「わかった」  陽多の提案――命令と言ったほうが正しいだろうか――を受け入れ、武史はうなずいた。 「必要最低限のことを済ませたら、現場を離れる。なにかあったらすぐに連絡をくれ」 「了解です。一日、ゆっくりできるといいですね。自分の好きなことをしてさ」  好きなこと、か――。  少し考えて、とある人の顔が浮かんだ。十年ほど前、まだ二十代だった頃の青い自分を優しく抱いてくれた人。  久しぶりに、顔を見せに行くか。  陽多の心づかいに感謝し、今夜は新宿のバーへ行くことにした。
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