9.新しい恋は、どこまでも甘く

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9.新しい恋は、どこまでも甘く

   *    「ねぇ、なんで武史がそこまでしてあげなきゃいけないの?」  まだベッドに下半身を突っ込んだままの理仁が、寝ぐせだらけの顔で頬を膨らませ、唇を尖らせた。歯磨きと洗顔を終えて寝室に戻ってきた武史は、いつまでぼやいているつもりだと理仁をにらむように一瞥(いちべつ)した。 「仕方ないだろう。陽多に……タレントに頼まれたら断れないのがオレの仕事なんだ」 「だけどさぁ、ヨータくんの恋人の世話なんて、武史の仕事の範疇(はんちゅう)じゃないじゃん絶対」 「やめてくれ。深く考え始めたらこの仕事は成り立たなくなる」  寝巻代わりの黒いスウェットを脱ぎ、吸湿発熱素材のアンダーシャツと白いワイシャツを手早く羽織る。ここ最近はまたスーツと部屋着を交互に着る日々に戻っていた。オシャレをする暇がないほど忙しいというのももちろんあるが、めかし込んで出かけて、一夜の出会いを求める必要がなくなったからというのが一番の理由だった。  外は霜が降りるほど冷え込んだ、十二月の朝六時。  理仁の部屋で、理仁と同じベッドで眠っていた武史は、一本の電話にたたき起こされた。  ――どうしよう、五十田さん! 光くんが風邪ひいて、すごい熱なんだよ!  知るか。そう言って電話を切ってやることができたらどれほどよかっただろう。陽多が体調を崩したならともかく、なぜオレが陽多の義兄の面倒まで見てやらねばならないのだと、武史は芸能マネージャーという自身の職務を心から呪った。 「行かないでよ、武史」  武史と一緒になって起こされ、ひとしきり不平不満をこぼした理仁は、ベッドの上で膝をかかえ、子犬のようなあどけない目をして武史を見た。 「まだ六時じゃん。もうちょっと一緒にいてよ」 「すまない。今夜はなるべく早く帰るから」  二人で一緒に暮らし始めて、一ヶ月ほどが経っていた。理仁は下北沢にあるマンションの一室を持っていて、社会人になった頃から借り続けているワンルームマンションで暮らしていた武史がそちらへ移り住むことになった形だった。  細くストライプの入った黒いスラックスと靴下を履き、ワイシャツの上からアーガイル柄のニットベストを身に着ける。カーキのネクタイを締め、スーツのジャケットとトレンチコートを羽織れば、頭はすっかり仕事モードに切り替わった。状況が状況だけに気はまったく進まないが、行かなければならない。自然と背筋が伸びた。 「ねぇ、やっぱり今の仕事は辞めてうちの会社に来てよ、武史」  ベッドから降り立った青いパジャマ姿の理仁が、準備万端の武史に歩み寄った。 「武史がヨータくんにとられるの、ぼく、やっぱり嫌だ」  今の理仁は、武史の言う『ヨータ』が俳優の志波陽多であることを知っている。陽多が日本アカデミー賞で新人賞を受賞した映画を見た、感動した、いい役者さんだねと最初のうちは言っていたけれど、今は武史の存在を奪い合うライバルとしか思えないらしい。 「何度も言わせるな。オレは今の仕事を辞めるつもりはない」 「でも、ぼくよりヨータくんと過ごす時間のが長いじゃん。ズルいよ、そんなの。ズルい」  理仁が腕を絡めてくる。かわいい顔をして、案外嫉妬深い男なのだ。それくらいのほうが愛されているとわかって嬉しくもある。  すがりつかれていた腕を引き寄せ、武史は理仁に口づけた。理仁の頬がわずかに赤らむ。 「絶対に辞めない」 「なんで」 「わかるだろう」  武史の右の人差し指と親指が、理仁の顎を持ち上げた。 「おまえの嫉妬心を(あお)るのに、陽多の存在はもってこいだからさ」  同じ時間を過ごすことが増え、理仁が嫉妬深さゆえにいじめがいのある男だということを知った。ただし彼は、いじめられたあとには仕返しを欠かさない。その仕返しはたいてい、ベッドの上で実行されるのだ。 「武史のイジワル」 「なんとでも言え」 「今夜、どうなってもしらないからね」 「好きにすればいい。オレは逃げたりしないから」  憮然(ぶぜん)としていた理仁だったけれど、夜の約束を交わすと途端に機嫌がよくなった。わかりやすい男だ。  床に脱ぎ捨てたスウェットを拾い上げる。  ふと思い立って、スウェットの上だけを手に持った。洗濯物を干す時のようにパンパンと軽くはたくと、理仁の頭に襟首を通した。  小柄な理仁にはやや大きい、武史の黒いスウェット。すっぽりかぶって顔を出した理仁の頭を、武史はポンポンと優しくなでた。 「あったかくしてろ。風邪ひかないようにな」  理仁は武史の突然の行動に驚いて、けれどすぐに両袖に腕を通した。  白い指先だけが見えている袖に、理仁はくんくんと鼻を近づけた。 「武史のにおい」  嬉しそうに微笑む理仁が愛おしい。離れがたいけれど、早くしないと陽多から催促の電話がかかってくる。 「じゃあな、理仁。続きはまた夜に」 「うん。いってらっしゃい」 「いってきます」  互いの頬にキスをし合って、武史はマンションをあとにした。
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