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2.仮面舞踏会
ひと昔前まではゲイタウンなんて呼ばれていたその場所も、今では本物のゲイを見かけることは少なくなった。マッチングアプリが出会いの場として主流となり、待ち合わせ場所を二人で自由に決められるようになったからだ。
それでも、昔ながらのバーやクラブは現在も軒を連ねている。たとえノンケが知らずに来てしまったのだとしても、ここへ来る男といえばそういう目的なのだと思われるのは今も昔も変わらない。
もう何日もスーツと部屋着にしか袖を通していなかったけれど、久しぶりに洒落込んだコーディネートで家を出た。
黒いテーラードジャケットに薄手の白いニットを合わせ、パンツはインディゴカラーのストレートデニムをチョイスした。足もとはカジュアルに黒のスニーカー。若すぎず、老けすぎず、三十六という年齢を意識した服装を心掛けたつもりだ。
なんだかんだと午前中いっぱいは仕事をして、昼間のうちに睡眠をとった。目が覚めたら外はすっかり暗くなっていて、新宿に着いた頃には午後九時を回っていた。
何軒かの飲食店が入っている商業ビルの二階に、今夜の目的地である『Bar KAIMORI』は入っている。マスターの貝森茂樹と武史が知り合ったのは、別のクラブで開催されていたパーティーに参加した時のことだった。まだ陽多のマネージャーとして働き出す前、別のタレントを担当していた、社会人二年目の夏のことである。
当時、武史は真剣に離職を考えていた。想像以上の激務と、担当していたタレントの素行不良が公になるという不運が重なり、心もからだもボロボロだった。
自棄なって、一人でくだんのパーティーに乗り込んだ。貝森と出会ったのはその時だ。見境なく酒を呷りまくっていた武史に、貝森から声をかけてきた。
武史もそうであるが、貝森はよく響くバリトンボイスの持ち主だった。武史の声よりもなお深く低く、それでいて丸みとあたたかみを帯びていた。
その美声に励まされ、武史は貝森の腕の中で泣いた。パーティーを二人で抜け出して、貝森に優しく抱いてもらった。
――どうしても今の仕事をやめたいなら、うちへ来い。おまえ一人を雇うくらい、わけないからな。
当時からバーを経営していた貝森は、迷うことなく武史に救いの手を差し伸べてくれた。だがむしろ、そのおかげで武史は芸能マネージャーという仕事をもう少しがんばりたいと思うことができた。
誰かに助けてもらうより、誰かを助けるほうがいい。自分の未来は、自分で切り開いていきたい。
そう言うと、貝森は「そうか。がんばれよ。つらくなったらいつでも店に遊びに来な」と背中を強くたたいてくれた。どこまでも優しい人だった。
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