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ビルの一階にはイタリアンレストランが入っていて、建物西側の細い通路を進み、奥にあるエレベーターで二階へと上がる。
エレベーターホールには、すっかり見慣れた『Bar KAIMORI』の立て看板が置かれている。が、今日はいつもとは書かれている文言が違った。
ブラックボードに白と黄色、ピンク色のペンで「ハロウィンイベント開催中!」と記されていた。カボチャのオバケ、ジャック・オー・ランタンのイラストまで上手に描かれている。
ハロウィン。もうそんな時期か。仕事が立て込むといつも、時の流れや季節感を見失う。
エレベーターに乗り込み、二階へ向かった。下りるとすぐ目の前にある店の入り口の前に、バーテンダーらしき青年が一人、口もとに笑みを湛えて佇んでいた。
「いらっしゃいませ」
さわやかに出迎えてくれた若い店員の姿に、武史は目を丸くした。
服装こそ白いシャツに黒いギャルソンエプロンとバーの店員らしかったが、その顔には目もとだけを器用に覆う黒いマスカレイドマスクがつけられていた。
驚いて立ち固まる武史に、青年は淡々とした口調で告げた。
「当店では本日、ハロウィンイベントを開催しております。ドレスコードとして、こちらの仮面の着用が必須となりますが、よろしいですか?」
青年は提げていた小ぶりのかごの中から白いマスカレイドマスクを取り出し、武史のほうへと差し出した。
仮面だって? 店の中では仮面舞踏会でも開かれているというのか。
差し出された白い仮面を見て『美少女戦士セーラームーン』のタキシード仮面を思い出したのは姉の影響だが、それはともかく、貝森とゆっくり話をしたかった武史はすっかり気落ちしてしまった。
かといって、せっかく来たのだから黙って帰るわけにもいかず、武史はしぶしぶ受け取った仮面をつけて入店した。ドアを開けてくれた店員が「一名様、ご来店です」と中にいる他の店員に聞かせるような声で言った。
店内はどんな様子かと思ったけれど、それほどごった返しているという風でもなかった。
十二席あるカウンター席と、四人掛けのテーブル席が六つ。テーブルとテーブルの間は十分な広さを取り、マスターである貝森や他のバーテンダーの立つバーカウンターから店全体が見渡せる開かれた空間になっている。
普段は満席になると客を断るところを、今日はイベント開催中のため、テーブル席の半分を撤去し、残り半分の配置を替え、ほとんどクラブのパーティーのような立ち飲み状態で営業していた。客は現在三十名ほどで、全員がドレスコードを守って色とりどりのマスカレイドマスクを着用している。照明が薄暗いのはいつもどおりだが、客や店員がつけている仮面がその光を乱反射させ、まるでミラーボールが回っているかのように店の中はきらびやかだった。
「貝森さん」
まっすぐバーカウンターへと進み、武史は熱心にグラスを磨いている貝森に声をかけた。彼はゴールドの仮面で目もとを覆い隠していた。
「おぉ、武史か」
声とシルエットでわかってくれたようで、貝森は快活に笑って武史を迎えてくれた。
「いらっしゃい。ずいぶん久しぶりじゃねぇか」
「ご無沙汰してます。お元気そうで安心しました」
「おうよ、おかげさまでな」
どうぞ、と貝森に椅子を勧められた。促されるまま、あいているカウンター席の一つに腰を下ろす。
「すごいですね」
椅子の背もたれに手をやりながら振り返り、武史は改めて店内を見回した。
「仮面舞踏会ですか」
「あぁ。なかなかおもしろいだろ。題して、『マスカレイド・ナイト』だ」
貝森はご機嫌な調子でそう言った。どこかで聞いたようなタイトルに、武史は貝森のほうを見た。
「……東野圭吾?」
「違う違う! あっちは『マスカレード・ナイト』だろ? うちのは『マスカレイド』だから。伸ばし棒じゃなくて『イ』だから」
貝森は胸を張るが、どう考えてもパクリだった。あまりにもくだらなくて、武史は笑った。
「なに飲む?」
シェイカーを手にした貝森に訊かれる。「度数の強いものを」と注文すると、貝森は困ったように息をついた。
「おまえさんがここへ来る時はいつもそれだな」
手際よく材料を準備しながら、貝森は武史の表情を窺った。
「前にも言っただろう。逃げるために酒を飲むのはよせって」
「逃げてません。貝森さんの作ってくれるうまい酒が飲みたい気分になっただけです」
「またそうやって軽口を」
貝森は顔をしかめるが、
「……まぁ、舌の回ってるうちは健全ってことか」
と言った。言葉も出ないほど弱り果てた、若かりし頃の武史を知る者だけが紡げる言葉だった。
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