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武史よりもちょうど一回り年上の貝森だが、シェイカーを振る姿は何度見ても惚れ惚れするほどかっこいい。動きに無駄がなく、今はゴールドの仮面のせいでわかりにくいが、客から逸らした視線はなにを思っているのか悟らせないような色をいつもしている。うっすらと生やしたあごひげにはかすかに白いものが混じり始め、浅黒くてワイルドな横顔には穏やかで優しいしわが刻まれていた。
「お待たせしました」
貝森が出してくれたカクテルグラスは、鮮やかなライトブルーに染まっていた。
「ブルーパシフィック。ウォッカ、ブルーキュラソー、ライム、グレープフルーツ、ライチのミックスだ。さわやかな味わいで飲みやすいが、ご希望どおりアルコール度数が高いんで飲みすぎにはご注意を」
その名のとおり、透き通る青い海を思わせる美しいカクテルだった。「いただきます」と小さく言ってから口へ運ぶと、さわやかな香りと広がる甘みが口の中で絶妙なコントラストを奏でた。くせがまったくなく、舌触りもいい。
「うまいだろ」
貝森が得意げな顔をする。「はい」と素直に答えて、もったいないと思いながら一気に飲み干し、同じものをもう一杯頼んだ。
「今回は仕事の失敗じゃなさそうだな」
二杯目のブルーパシフィックを提供し、貝森は窺うような視線を武史に投げた。
「どっちかっつーと順調だろ。おまえが育てたあの俳優、ここ最近は特に出ずっぱりだもんな」
陽多のことだ。ありがたいことに、陽多のもとへ舞い込んでくる出演オファーは途切れることがない。日本じゅう、いや、世界から求められる俳優へ、陽多は立派に成長した。誇らしいことだった。
「恋人にフラれでもしたか」
冗談っぽく、貝森はからかうように尋ねてくる。フラれたわけではないが、長年の恋心に思わぬ形で終止符を打たれたことに変わりはない。
黙ってカクテルグラスを傾ける。貝森は目を丸くして「マジか」とつぶやいた。
「驚いたな。おまえさんは特定のパートナーを作るタイプじゃねぇと思ってたが」
「作りませんよ」
武史はグラスに目を落としたまま答える。
「フラれてもいませんし」
「じゃあなんだ、その顔は。すっかり落ち込んじまって」
「顔なんて見えないでしょ、これのおかげで」
身に着けている白い仮面を指さす。貝森は肩をすくめた。
「わかるさ。おまえさんとは長い付き合いだ。声聞きゃだいたいのことはわかる」
胸がトクンと脈打って、小さくキュッと絞めつけられた。
やっぱり貝森は優しかった。でもその優しさは武史だけに向けられるのではなく、この店にやってきて、貝森の広い懐を頼る者皆に平等に向けられる。
武史たちゲイにとって、ここは駆け込み寺のような場所だ。つらいことがあった時、貝森はひと時の癒やしと前に進む力を与えてくれる。
彼には特定のパートナーがいない。だからこそ、そうしたことがごく自然に成り立っているのだ。貝森茂樹とはまさに、仏に身も心も捧げた僧侶のような男だった。
「ゆっくりしていきな」
貝森は微笑み、美声を心地よく響かせた。
「今夜は祭りだ。おまえもあの中に混ざってざっくばらんに話をしてくるといい。気晴らしには最適だろ」
貝森があごでしゃくった先では、見ず知らずの男たちが輪を作って談笑していた。全員とは言わないが、彼らのほとんどがおそらく、今日はじめて会った者同士だ。
彼らとは別のグループが「マスター」と貝森を呼んだ。貝森は返事をしてから、武史に向き直った。
「あんまり考え込むなよ、武史。いい男引っかけて、嫌なことなんて忘れちまえ」
彼らしい励ましを残して離れていく貝森の背中を、武史は横目で追いかけた。別の客と楽しそうに話し始めた彼を見て、改めて自分の気持ちと向き合う。
貝森のことは、人として尊敬している。彼になら抱かれてもいい。
けれど、陽多に対していだく感情とは明らかに別の気持ちだった。貝森のことは好きだけれど、自分だけを見てほしいとは思わない。陽多をいつまでもひとりじめしていたかった、そんな恋愛感情とは違う。
ブルーパシフィックの鮮やかな青に目を落とす。
貝森の顔が見られて、優しい声が聞けて、それだけで少し心が洗われた気がしたけれど、陽多に対する恋心が消えることはなかった。
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