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「大丈夫?」
理仁が武史の下がった顔を覗き込んだ。「あぁ」と武史は短く答えた。
「仕事の電話?」
「うん」
「大変だね、こんな時間に」
「いつものことだ。もう慣れたよ」
朝から深夜まで働くことは当たり前だし、まとまった睡眠時間の取れない日だって週に何度もある。給料に見合った労働とはとうてい言い難いのが芸能マネージャーの仕事だ。離職率が高いことは言うまでもない。
それでも武史がこの業界に留まっているのは、志波陽多というダイヤモンドと出会ったからだ。彼と仕事をともにするようになり、武史はマネージャーとして成長することができた。その恩をできる限り返したかった。大人の男になった陽多に恋をしてしまったことは、あくまで想定外のできごとだった。
「でも、しんどそうだよ」
テーブルの上で指を絡めた武史の両手に、理仁がそっと左手を重ねてきた。
「仕事、うまくいってないみたい」
この店まで歩いてくる途中、理仁には『武史』というファーストネームだけを明かした。ゲイであるとわかって近づいてくる相手にはいつもそうしていて、芸能事務所で働いていることはたいてい告げない。タレントのプライベートを覗かれることを避けるためでもある。
なんと答えるべきだろう。言葉を探しながら、武史は両手の指をほどき、触れていた理仁の左手を右手で静かにすくい上げた。
「仕事じゃない」
恋人同士がするように、武史は理仁のきれいな指の隙間に自らの指を絡めていく。
「仕事がうまくいってないわけじゃない」
「じゃあ、人間関係?」
理仁もこたえるように、武史の右手を柔らかく握った。
「それとも……恋愛?」
手のひらから伝わってくる理仁の熱は優しかった。昔、貝森に慰めてもらった時のことを思い出す。
あの日の貝森は優しかった。今でも優しい。
彼とは似ても似つかぬ見た目をしていて、彼のような包容力は期待できない気がしているのに、理仁の熱に身をゆだねたくなってくる。そんなキャラでもないくせに、猛烈に誰かに甘えたい気分だった。
「わかってる。オレが悪いんだ」
誰に聞かせるわけでもなく、武史は心のままに言葉を紡いだ。
「好きになっちゃいけない男だった。仕事上のパートナーだ。どうせオレのことなんてまともに見てくれやしないのに、気づいたら、どうしようもなく好きで」
マネージャーなんて、言うなればタレントのしもべだ。身の回りの世話をし、仕事の世話もし、こっちのプライベートはいつだって犠牲にされる。
それでも、担当しているタレントがいい仕事をすると無条件で嬉しくなるものだ。それが一番のやりがいで、陽多はいつもいい仕事をした。
そこで満足しておくべきだった。俳優としての志波陽多だけを好きになれたらよかったのだ。
一人の男として、陽多のことを見てはいけなかった。だって陽多は絶対に、オレのことを男として見てはくれないのだから――。
「恋人ができたんだ、そいつに」
もうやめておけばいいのに、武史の舌は回り続ける。
「そいつはオレに遠慮することを知らない。容赦なくノロけてくるし、オレの前で恋人とキスをしたりする。それでもオレはそいつと一緒に仕事をしなくちゃいけなくて、ヘタをすれば恋人よりも長い時間を毎日のように過ごす羽目になる。早く忘れなくちゃいけないのに、こうやって酒に頼っても、今はまだ」
武史は力なく首を振る。事あるごとに陽多の顔が脳裏を過るし、光に嫉妬をしさえする。義兄弟の固い絆は途切れることを知らないのに、それでもどこかで天地がひっくり返ることを期待している自分がひどくむなしい。
「どうして」
理仁とつないでいる右手に力を込め、武史は理仁の目を見て言った。
「どうして、オレじゃダメなのかな」
理仁はかすかに表情を変えた。二人を包んでいた空気が冷たさを帯びる。
どうして陽多は、光を選んだのだろう。光よりもずっと長くそばにいて、陽多のことをずっとよく知っているのはオレなのに。
驚いた顔をしている理仁から、武史はそっと目を逸らす。
陽多の母が再婚しなければ。せめて再婚相手に子どもがいなければ。その子どもが、光じゃなければ。
考えても無駄なことばかりが頭の中を埋め尽くしていく。一生叶うことのない恋なのに、そうとわかっているはずなのに、陽多の笑顔が頭から離れない。陽多を好きだという気持ちが消えない。
「……忘れろよ、もう」
右隣から、無理やり絞り出したように苦しげな声が聞こえた。いつの間にか武史から目を逸らしていた理仁のうつむいた横顔を、ゆるくパーマのかかったきれいな茶髪が覆い隠している。
「忘れなきゃダメだよ。どれだけ願っても叶わない恋なら」
「わかってる。でも、うまくいかない」
「忘れるんだよ!」
理仁はやや声を荒げた。あいた右手で髪をかき上げ、突然のことに呆気にとられている武史に、顔をぐっと近づけた。
「今夜、ぼくが忘れさせる」
ボリュームを落とし、ささやくように喉の奥から出した理仁の声は、これまで感じたことのない独特の色気と、どこか暴力的な響きを孕んでいた。左耳につけている彼のブルーサファイヤのピアスが店の照明を浴びてきらめき、目が眩みそうになる。
こうなることを、心のどこかで望んでいたのかもしれない。
気がつけば武史は、理仁とベッドの上にいた。
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