彼女の事情

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 四年半ほどいた会社を辞めると、当然負担はなくなり、ストレスもなくなった。だけど、私の病んだ心はすぐに元には戻らなかった。  私は燃えつきていた。  本当ならすぐに就職活動を始めて、希望する企業へ面接に行かなければならない。でも、そんな当たり前のことができなかった。  お父ちゃんは優しかった。 「今まで人の何倍も頑張ってきたんだ。好きなだけ休め。見栄を張らずに自分が食っていける分だけ稼げれば、それで十分なんだから」  私は涙を(こら)えることができなかった。  より多く稼ぐ者が優れている。証券会社で働いていて無意識のうちに身に付いてしまっていた考えが、絶対的なものではないと思い知ったのだった。  やりたいこともなく休んでいると時計ばかりを見てしまう。三年の引きこもりを経てから、私はメンタルのリハビリを兼ねて家業の蕎麦屋を手伝うようになっていった。  金融トレードをしていた時のようなピリピリする緊張感はない。ただお客さん一人ひとりの注文を受けて満足して帰ってもらう。  ずっとこのままでも良いと思ったりもしたが、徐々に減っていく売上や、喘息持ちのお父ちゃんの苦しんでいる姿を見たりすると、やはり「私が働かなくては」という気持ちが強くなっていった。  そんな時に近所の居酒屋さんで津村湊くんと出会った。  一目見ておとなしそうな男の人だと思った。  一人で居酒屋に行くと、必ず左右にどんな人がいるかを気にするようにしている。以前酔っぱらいに絡まれて不愉快な思いをしたことがあったからだった。  何気なく話しかける。別に彼に興味があったわけじゃない。せっかく外で食事をするからには気持ちよく食べたいから、そうしただけのことだった。  彼は女性に馴れていないのか、突然話しかけられて困惑していた。 「ハーフっぽいですね」なんて言われたので「実はハーフなの」とか言って堪能な英語を披露してみようかと思ったけれど、馬鹿馬鹿しいからやめておいた。ちなみに私の両親はどちらも日本人だ。  タバコを吸う。証券会社の男ばかりの環境で働いていて身に付いた悪習だった。  彼は私がタバコを吸うことに驚いていた。気まぐれに「貴方も吸う?」と聞いてみたら「じゃあ、一本だけ」と言って私のタバコを一本抜いた。  私は習慣でライターを用意して待つ。だけど彼は手にしたタバコを一向に口へと持っていかない。なんと彼はタバコの吸い方も知らなかったのだ。  私は笑わずにはいられなかった。同時に初々しくて可愛いと思った。  見栄っ張りな人とは付き合ったことがある。本来なら見栄っ張りは嫌いだ。だけどそれは相手が私より年上か同い年くらいの人だったからそうだっただけで、明らかに自分より年下の男の見栄は、観ていてなんだか可愛らしく思えて仕方なかった。  そう、彼は私より十歳も年下の男。彼は私にとって恋愛対象外だった。
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