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その蕎麦屋は住んでいるアパートから歩いて十分くらいの場所にあった。
駅へ向かう途中にあるので、以前からお店があることは知っていたものの、中に入って食事をしたことは一度もなかった。
のれんをくぐる。
「いらっしゃいませ」
看板娘だろうか。若い女性が俺を案内するために出て来たかと思えば、なんと、それがあの時の彼女だった。
俺は拍子抜けしてしまった。同時に、彼女との初めてのデートのようなものを想像していた俺は、少し恥ずかしくなってしまった。
だけど、騙されたとはいえ悪い気はしなかった。
「何にする?」
一度しか会っていないというのに、彼女の対応は友だちのノリである。
俺は卓上のメニューを軽く眺めてから「鴨せいろをください」と彼女に注文した。
「はい、鴨せいろ二つ」
彼女が大きな声で厨房に伝えると、「はいよ」と奥から年配の男性の声が聞こえて来た。
二つ? 一つしか頼んでいないのだが。俺が不思議そうに彼女の顔を見上げると「私もお昼まだなんだ。一緒に食べましょ」と彼女は言って、何の躊躇いもなく俺の向かいの椅子に座った。
営業スマイルというやつだろうか。にこにこと笑っている彼女を前にして、なんだか落ち着けなくなってしまった俺は、それを誤魔化すように改めて店の中を見回してみた。
個人経営の小さな店だった。大人四人がやっと座れるくらいの小さな座敷が一つと、あとは四人がけのテーブル席が一つと、二人席が二つあった。
お昼過ぎの時間帯だからだろうか、俺以外にお客さんは誰もいなかった。その意味では店員である彼女とゆっくり話すことができそうだった。
「はい、お待ち」
そんなに時間がかかることもなく、奥からこの店の店主らしき年配の男性が、二人分の鴨せいろを持って現れた。
彼女は「あ、お父ちゃんありがと」と立ち上がってそれを受け取ると「こちら津村湊くん。最近知り合った私の友だち」と俺のことを手短に紹介した。
お父ちゃん? ここでアルバイトをしているわけじゃないのか。だとすると、もしかしてここが彼女の家なのか。
急に色々なことが分かってしまって俺は慌てたが、何とか外見だけは冷静であるように装って、彼女のお父さんだという人に頭を下げた。
「こんにちは」
「……よろしく」
親父さんは分厚い眼鏡の向こうの目で俺の顔をじっと見つめると、別に何かを詮索するわけでもなく、さっさと厨房の奥へと戻っていった。
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